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大仙公園のあおぞら

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G20も無事終わったようで、 梅雨空で5月の ハレゾラ を お届けします。 大仙公園の南半分に広がる 日本庭園…もとは、 万代(もず)新田 と 呼ばれたところ。 作庭は「昭和の小堀遠州」 とも言われた 中根金作 。 海外の日本庭園誌で 10年以上1位の 座を守り続けている 「 足立美術館庭園 」も 彼の作品です。 1917年静岡県の天竜村に出生、 県立浜松工業学校を経て、 東京造園学校を卒業。 東京造園学校は今の現 東京農大 。 石津渓 (いしづけい)。 堺を流れる石津川を あらわしています。 遠くに 平和塔 を望む。 公園内にある 与謝野晶子 の歌碑 「花の名は   一年草もある故に忘れず  星は忘れやすかり」 天を指さすかのようなカタチ、 第二次「 明星 」の終刊を 詠ったものだそうです。

堺の街並みを往く〜利休と晶子との差170センチ?

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3月20日オープンの “ さかい利晶の杜 ”にも、 寄ってきましたよ!! 建物の裏手にある 「 千利休屋敷跡 」から見ると、 本当にリッパと言うしかありません。 有料ゾーンの 千利休茶の湯館 と 与謝野晶子記念館 、 そしてオープンエリアの 観光案内展示室 で構成されています。 梅の花 さんや ドライブスルー・スタバ があって、 道の駅みたいな感じなのかなぁ〜 なんて思えました。 屋敷跡に残る「 椿の井戸 」は、 椿の炭を底に沈められた ことに因むもの。 井戸屋形は利休ゆかりの 大徳寺山門 の古部材より建てられたもの。 そして… 与謝野晶子 の生家もほど近くに。 菓子商 駿河屋 の三女として、 甲斐町に生まれてから、 鉄幹さん に出会って 家を出るまで堺で過ごしました。 “利晶の杜”の与謝野晶子記念館に 原寸大復元された駿河屋の店先。 1901年(明治34)出版の「 みだれ髪 」は、 鉄幹さんへのあふれる愛と 青春のみずみずしさが今でも新鮮。 こちらは“利晶の杜”にあった文学碑。 1933年(昭和8年)に与謝野夫妻が 互いの文学的資質を誉め讃えたものです。 二人の仲睦まじく、 尊敬し合っていた姿が偲ばれます。 「海こひし 潮の遠鳴りかぞへつつ  少女となりし父母の家」 の歌碑。 実は晶子が通った 堺女学校 への道は、 現在の地表から 30cm下の道 。 徳川家康 が京で信長と会見した後、 本能寺の変を聞きいわゆる伊賀越にて、 大急ぎで三河に逃れたときは 地下2m 。 ザビエル公園にある 「聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅(ほうたく)」の碑 それより遡って、 サンフランシスコ・ザビエル が キリスト教の布教のため、 堺の地を踏んだときは 地下2m20cm 。 さらに 一休さん が街を闊歩したころの地表は、 地下3m のところに位置するのだそうです。 なぜそんなことが分かるかといえば、 大坂夏の陣では焼き討ちに遭い、 自治都市堺が灰燼化したときの層。 キリスト教宣教師も記録をとどめる 「 天正の大火 」の跡。 利休はこの下の地層に生きた。 第二次世界大戦末期の大空襲 で 焼け野原になったと...