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和順な華頂山へ 知恩院の男坂と女坂

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華頂山知恩院三門 「 三門の「三」とは三解脱,  空、無相、無願を象徴… 」 鎌倉 円覚興聖禅寺ブログ での解説。 知恩院三門 も三解脱門を 意味していて同じ三つの境地を 表しています。 徳川2代将軍 秀忠 の命、 1621年(元和7)に建立されたもの、 構造は五間三戸・二階二重門・ 入母屋造本瓦葺です。 30日の昼前には 正月飾り で 日章旗とともに五色旗 。 五色の 青 はお釈迦さまの髪の色、 黄 は体、 赤 は血、 白 は清らかな歯、 紫 はお釈迦さまの 袈裟の色 。 禅定、金剛身、常の精進、 清浄心、忍辱 をそれぞれ表すもの。 徳川将軍家の庇護は厚いのは、 家康が熱心な浄土宗信者 で、 於大の方の永代菩提寺 に 定めたことに所以とします。 三門楼上には一度上がらせて 頂いたことがあります。 大学の史料購読の講義の教官が、 華頂女子短期大学 の教授で、 特別に登楼したことがあります。 知恩院の七不思議の一つが、 山門の" 二つの白木の棺 "… 知恩院HPより 造営奉行 五味金右衛門夫妻 の 木像は自作で… 予算超過のため責任を取り 自刃したと伝わるのです。 三門の両脇に付属する小屋" 山廊 "、 それらから伸びるこの階段より、 三門上層へ登らせていただきました。 知恩院にもある男坂と女坂、 急だから男、緩やかだから女… ただ行きは男坂、帰りは女坂、 知恩院の男坂には手摺なしです。 実はこんな逸話があって、 知恩院は二条城が落とされた時、 緊急用のお城になるように 造られているのだ とか… 女坂 は幅が広く作られていて、 人間のためのものではなく 馬が走るためのもの に なっているのです。 男坂 は登り始めは段差が大きく、 徐々に段差が短くなっています。 合戦時に攻め込まれたときに、 上に登ってきた敵を効率よく 叩き落とすためだとか。 知恩院黒門 はかつて 伏見城 にあったものを 山岡景友 が移築してきたとか… 景友は 秀吉の御伽衆 の一人、 秀吉死後は遺物金を拝領。 以後は 黒田長政 らを通じて 徳川家康に接近 し、 使者として活動するなど、 後年は再び剃髪して " 道阿弥 "と号した人物。 ここから 御影堂 に向かう人は、 多くないがこの門の先は、 知恩院が城郭であることを 感じさせるのです。 次回

京もみぢ2022 蓮成院と聖応大師良忍

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呂川に架かる羅漢橋を 渡った石垣上に 蓮成院 … 来迎院の塔頭 の一つになる。  室町時代の 応永年間 (1394-1428)は、 "北ノ坊" と呼ばれたと伝わりますが、 江戸時代に現在地に移転し、 寺号を "蓮成院" に改めたとか… 1720年のことですが、6年後 焼失。 1926年にこの地に移転。 石段上には" 薬師門 "… 門は通りに面しておらず、 石段を上り左に折れる。 " 客殿 "は、玄関の右手になる。 江戸時代後期の 昌仁法親王の仮御殿 、 当初は 三千院内 にあり近代以前に 移築されたともされ、 三千院に宸殿再建 された1926年、 この時期にあたるのかも知れません。 NHK NEWS WEB より 菊池契月 筆の障壁画「飛天図」、 川北霞峰 の竹林を描いた襖絵、 木島櫻谷 の屏風には 水墨画の鹿 、 西山翠嶂 の 兎 などなど… 客殿を飾っておりました。 庭園名は" 契心園 " 池の形が "心"の字 。 客殿南に広がるが、 お庭もカメラNG (´;ω;`) かつては池庭であったが、 水が流れされていませんでした。 石組は羅漢 を表したとも… 羅漢が出現して迎えた との、 良忍上人 の故事に因んだとも。 (大念仏寺の寺宝HPより) 聖応大師良忍 … 尾張富田の生まれ、 13歳で叡山に上り、 天台の教相と観心を学び、 顕教及び密教にもすぐれた聖。 良忍上人はかねてより 聖徳太子尊崇 が深く、 太子ゆかりの 四天王寺 に詣、 大原隠棲後 来迎院を建立 し止住、 如来蔵を建て 大乗三蔵を修得 。 良忍上人は法華経を読誦し、 大乗経典を書写、 さらに念佛六万返を唱え… 念佛三昧中に阿弥陀仏から 融通念佛の教え … 授けられたのは46歳のとき、 そのように伝わります。 教えを以って布教され、 都はもとより畿内一円にへ、 河内平野に 大念佛寺 を総本山 融通念佛宗 を開宗。 入滅は60歳のこと、 1132年(天承2年)2月1日 来迎院 にて… 来迎院の裏手を山入ると 三重石塔 … 律川の上流にあるのが" 音無の滝 "、 良忍上人が滝に向かって 声明の修業をしていると、 滝の音と声明の声が和して、 ついには滝の音が 聞こえなく

京もみぢ2022 魚山来迎院

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" 魚山 来迎院 " 呂川 に沿って 参道を登ってくると、 下界と隔絶した天台宗の古刹。 来迎院は普段でも拝観できますが、 来迎院の非公開特別公開は、 1426年(応永33)の焼失を 免れたも" 如来蔵聖教文書類 "。 来迎院を建立したとされる 聖応大師良忍の自筆写本 など。 " 来迎院本坊 "とありその興りは、 俗化した叡山を離れた念仏聖 による。 寂源 が 勝林院 を1013年(長和3)、 1109年(天仁2)になって 叡山東塔の堂僧 良忍 が 来迎院 。 上院来迎院 と 下院勝林院 を中心に、 大原は坊が集落する別所となり、 古くは 魚山 大原寺 (だいげんじ)と 称したのだそうです。 本堂には木造漆箔寄木造の 薬師如来、釈迦如来、 阿弥陀如来 三尊 を中心に、 不動明王像 と 毘沙門天像 を 脇侍に配する 藤原期の様式 。 前卓の 牡丹唐草透かし彫り は、 鎌倉彫の初期の作 と伝わります。 声明の根本道場 であったことを 伝える歌舞音曲の天女たちが 天蓋に描かれています。 声明の本山としての血脈は、 のちに 湛智、宗快、喜淵 などの 声明理論家 を輩出し繋がります。 撮影 2022.11.19

京もみぢ2022 三千院 大原女と地蔵さまたち

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三千院には 小さな仏さま もあちこちに。 子を抱く すでに悟りを開いたか こちら童やも 金色不動堂の北、 " 律川 "にかかる橋を渡ったところに、 鎌倉時代 の大きな阿弥陀石仏。 昔、炭を焼き始めた老翁が住んでいた 売炭翁旧跡 と伝えられることから、 親しみをこめて" 売炭翁石仏 "と呼ぶとか。 「炭竈のたなびく煙 ひとすじに  心細さは大原の里」 寂然法師 の歌が遺ります。 大原の柴や薪、農作物などを 頭にのせて町まで売りに歩いた 行商の" 大原女 "。 鎌倉時代から昭和初期まで、 紺色の着物に赤いたすき… 三千院への道すがら 妖精のように… " 白川女 "は紺木綿の着物の肩に 手ぬぐいをかけ友禅の襷。 " 桂女 "は桂川でとれた鮎を売り歩く… 祖母の西陣の家 にも、 賀茂なす とか 柴漬け とか… 売りに来てはりました。 大原の魚山は "呂川"と"律川" とに 挟まれているのですが… 調子外れ を" ろれつが回らない "、 漢字で書くと" 呂律 "。 仏教音楽である天台声明の 発祥の地である魚 山、 呂川と律川は和楽の旋法 に 因んでいるのです。 (絵葉書より) 往生極楽院 南…弁天池の脇にたたずむ 小さなお地蔵さまたち… 苔と一体となっておる。 石彫刻家の 杉村孝 氏の" わらべ地蔵 "。 どこにいたのか"もみぢ葉"に 隠れていたのやも知れませぬ。 撮影 2022.11.19