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太閤秀吉を辿る vol.3 羽柴の御由緒

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《豊臣秀吉像》 東京芸術大学大学美術館蔵  石川光明 石膏 明治時代 羽柴秀吉の" 羽柴 "… 二人の人物にあやかって 付けた名前とされています。 織田信長の家臣だった、 丹羽長秀と柴田勝家 。 織田家臣団の有力武将の 名前をそれぞれ一文字ずつ… 《丹羽長秀像》  東京大学史料編纂所蔵 羽柴秀吉が関白任官されて、 天正13年(1585)で政権確立、 どうも二人あやかって、 とは思えない史実があるのです。 「天下一統」として従属させ、 上洛・出仕させ官位を与える。 聚楽第行幸の1588年には、 旧戦国大名のほとんどが、 "羽柴" 名字となるのです。 丹羽長秀の長男の 丹羽長重 も、 「御一家」として羽柴名字 を 称していたのです。 《豊臣秀吉木像》  大阪城天守閣蔵 『逆説の日本史11』 「豊臣秀吉、その実像と虚像」 の 著者 井沢元彦 さん曰く、 羽柴ではなく、" 端柴 "だと… 前田利家の伝記『 国祖遺言 』 「大閤様は右之手おやゆひ一ツ多六  御座候然時蒲生飛生飛弾殿肥前様  金森法印御三人しゆらく(聚楽)  にて大納言様へ御出入ませす  御居間のそは四畳半敷  御かこいにて夜半迄  御咄候其時上様ほとの  御人成か御若キ時  六ツゆひを御きりすて  候ハん事にて候ヲ  左なく事ニ候  信長公大こう様ヲ  異名に六ツめかなとゝ  御意候由御物語共候  色々御物語然之事」 《豊臣秀吉像》 醍醐寺蔵 " 六つ指 "のことは、 学会タブー視の差別案件、 との主張もありますので、 あえて現代訳を付けませんが、 信長は秀吉の異名として 「六ツめ」 呼んでいたと… フロイスの『日本史』 にもあり、 ただ多指症という症状は、 稀な話ではありませんでした。 当時1000人に1人の割合でした。 「猿」 と呼ばれていたことは、 後世の創作だったようです。 6本目の指を幼い頃に 切り落とす慣習は、 武士階級などある程度の 身分の者に限られていて、 農民の家に生まれたとする 立身出世の一端ともみえます。 多くの肖像画には右手の親指、 確認できないものが多く、 その事実を歴史上の記録から 抹消しようとした晩年の想いを、 伝えているのかも知れません。 昨年 大阪市旭区の大宮神社 で、 江戸時代の木像 豊国大明神

太子霊場めぐりvol.3 物部守屋の弔い

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大聖勝軍寺 より国道25号線を 100m程東に進んだところに 物部守屋の墓 があります。 「 物部守屋大連墳 」と刻まれる。 『 日本書紀 』には 物部弓削守屋大連 とみえ、 敏達天皇の御代に、 仏教の受容に積極的態度をとる 蘇我馬子 と対立し、 中臣勝海とともに排仏を主張… 寺院や仏像を焼き捨てたとか。 大聖勝軍寺の門前に「 守屋池 」。 聖徳太子が 迹見赤檮 に 鏑矢で守屋を射させ、 秦河勝 がその首を取って、 この池で洗ったとの伝え… 「 守屋首洗池 」とも。 『 河内名所図会 』によると、 塚状の丘の上に一本松のある 姿が描かれているのですが… 貝原益軒の『南遊紀行』 にも、 「跡部村、…守屋の頭塚・  躯墳(むくみづか)とて、  小塚二有。  頭塚は北に在て、松生たり。  躯塚は南に在。ただ春草のみ生たり。  守屋の大臣わが国の神をとうとび、  西域の神をふせぎ給ひし故、  厩戸皇子 憎み深くして、  罪なくて逆臣と称して、  冤殺(えんさつ)せられし処、  みるに忍び難し」と綴られいて、 仏教導入に反対したため逆賊との 評が長らく続いていたようです。 堺県知事 小河一敏 が、 顕彰の碑と石灯籠を建てたのは、 明治に入ってからのこと。 1967年に大阪府神社庁中河内分会にり、 「 物部守屋公顕彰碑 」が建立。 ずらりと全国有数の神社の玉垣で 取り囲まれたのは1987年のこと。 そもそも蘇我・物部両氏の対立を、 仏教受容の可否をめぐる争いを 中心に語られることが多いのですが、 仏家の教化的意図を中心とした 説話にもとづくと考えられています。 『 日本書紀 』にもみえる 守屋の排仏行為そのものは、 史実としてみられないのでして、 歴史の捉え方をよく表す例、 権力闘争に勝った側の意図が 反映されているのだと思います。 守屋は自ら子弟と奴軍を率い、 奮戦むなしくついに 迹見赤檮に射落とされ、 その子らも殺され、軍は四散。 馬子との戦いでは、 『 朴の枝 間に昇りて  臨み射ること 雨の如し 』と… 「 史跡 弓代塚 」の立つ路地を、 フェンスに囲まれた送電線鉄塔の 囲いの手前に「史蹟 弓代」。 "迹見赤檮発箭地" とも刻まれています。 発箭 (はっせん)とは矢を発した所 迹見赤檮は" とみの いちい " イチイという樹は弓の

太子霊場めぐりvol.2 太子の"和"について

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「呂和為貴 以禮為本」 聖徳太子の十七条憲法で よく見聞きする 「和を以て貴しとなす」 と 異にする漢文が刻まれています。 「皆で仲良くやりなさいよ」と 訳される「和」というコトバ、 第一条の命法部分には 「以和為貴無忤為宗」 とあり、 主題が礼であって、和ではない。 『論語』に辿るとそうなのですが、 人間の行動の原理としての 和を唱えているが聖徳太子なのだとか。 境内にある 椋の樹 に、 太子の石像が祀られています。 物部守屋との戦いで、 椋の樹がふたつに割けて、 聖徳太子をかくまったという 故事にちなむもの。 「守屋の大軍に囲まれ  絶体絶命の時、  椋の大木真二つに割れ  太子を包み九死に一生を得て、  太子最後に四天王の加護を祈り、  守屋を倒す。」と『 日本書紀 』。 山号の 「神妙椋樹山」 は、 太子が椋の樹に向かって 「神妙なり、神妙なり」と 仰せになったことに由来。 ちょうど ムクノキの花 が 咲いていました。 名前の由来は、木が古くなると 樹皮が細長い剥片となって 剥がれる=>ムケル に因むとも。 古木になると「 樹洞 」と呼ばれる 空洞ができやすいのです。 「乱後四天王を祭る太子堂を創建し  救命椋樹のそばに仏塔を造り、  敵将守屋公の尊像と  御自身十六歳像を安置、  敵味方の区別なく両軍の美霊弔らい、  「和の心」を後世に伝う。  推古天皇は椋樹と   大聖聖徳法王の勝ち軍 を讃え  山号寺名を賜う。」と… 境内の東側に立つ「 平和塔 」、 塔内には「 物部守屋 」と 「 太子と二皇子 」が祀らています。 四天王寺の太子堂の奥 にも、 「 守屋祠 」が鎮座しています。 昨年の11月のブログ 「 四天王寺七宮めぐり 弐 久保神社 」 で紹介したことがあります。 太子は、恩ある樹「椋の木」で 自身十六歳の像 を刻み、 自ら黒髪を断ち切り像に植髪。 そして椋の木を取り巻くように 茂っていた 白膠木(ヌルデ) で 四天王の像を刻んだと伝わります。 境内にある 毘沙門堂 、 太子が一時 信貴山 に難をさけ、 戦勝祈願して下山後、 毘沙門天の化身が現れたことにより、 稲城攻略に神業の働きをします。 そこで 毘沙門天二駆 を刻み、 前者をここ 大聖勝軍寺 、 後者を出現の地である 信貴山に祀ったと伝わります。 ちなみに… 信貴山朝護孫子寺 は、 太子霊場第

太子霊場めぐりvol.1 第二番 大聖勝軍寺

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2021年という年は、 聖徳太子没後1400年。 「聖徳太子1400年御遠忌」 とされています。 多くの太子ゆかりの寺院では、 行事が予定されているのです。 聖徳太子遺跡霊場 というのが、 二十八ヶ所あってその二番札所、 太子堂 大聖勝軍寺 に参ってきました。 聖徳太子御遺跡霊場会 というのがあり、 事務局は 四天王寺 にあります。 久々に朱印帳を求めて、 四天王寺でも御朱印を… 「太子遺跡霊場の御朱印」 とお願いしなければ、 寺院の独自のものとなるのです。 四天王寺の御朱印は 代表的なものだけでも 十種以上あるのです。 久々の御朱印蒐めでしたので、 こちらではじめました。 二番札所 大聖勝軍寺へ… 初めて訪れたのですが、 あまり知られていないのです。 JR久宝寺 から歩いて15分ほど、 「聖徳太子古戦場」 の碑、 『 日本書紀 』にある 蘇我馬子 と 物部守屋 の合戦場と伝わる地。 太子の父 用明天皇 は、 即位後1年半で崩御。 殯が明けると蘇我物部の 争いが激化します。 蘇我馬子は当時16歳の太子を はじめこの地で合戦を… 馬子太子軍は守屋の軍勢に 三度大敗したの受けて、 「いまもし我をして  敵に勝たしめば、  かならずまさに護世四天王の、  おんために寺塔を建つべし」 と。 戦いに勝ったならば四天王の 寺を建てようと誓った… それこそが 四天王寺 なのです。 門前の聖徳太子と四天王像、 丁未の乱 で貢献したとされる 4名が四天王に準えています。 増長天 が 蘇我馬子 、 多聞 天に 秦川勝 、 広目天 は 迹見赤檮 (とみのいちい)、 そして 小野妹子 は 持国天 に。 「太子と四天王の由来」… 「千四百余年の昔、  仏教伝来を巡り排仏派の反乱軍は  仏教軍に猛攻を加え、  太子軍は三度敗退する。  時に御年十六歳の太子は  部下四将軍に四天王の像を刻ましめ、  誓願をたて排仏軍を平定する。 「いまもし我をして敵に勝たしめば、  かならずまさに護世四天王の、  おんために寺塔を建つべし」 【四天王寺の聖徳太子像】 乱後難波の高台に 日本仏教最始の四天王寺を建立し、 仏教公伝の礎となった 当地渋川に勝軍寺を創建、 御自身十六歳の植髪の太子像と 四天王像を安置された と伝う。」 大聖勝軍寺の太子像の台座には、 聖徳太子遺跡霊場もぐるりと 刻まれています。 河内