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日本人の嗜好をさぐる⑳ 花火をどう見るか

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《名所江戸百景 両国花火》  安藤広重 2017年8月に公開された 「打ち上げ花火、下から見るか?  横から見るか?」 もう3年も立つ映画。 ようやく観ました(・ω・)v PCでだけど… 《東京名所競 両国橋花火》  歌川重清  1884年5月 当然 浮世絵で描かれているのは、 ほとんどが 見上げた構図 。 打ち上がった花火が 垂れるように落ちる表現、 これはかなりデフォルメに デザインされています。 《東都名所 両国夕涼の図》  歌川国郷 三枚続きの両国花火の大作。 橋下には提灯を掲げた船が ぶつからんばかり… 橋の上も満員で花火大会の 古今東西の人気がよく表現、 花火を見るのが目的なのか… 花火そのもののを描くことよりも、 この絵の 主役は"花火大会" ですね。 《江戸自慢三十六興  両こく大花火 》広重 粋な見方は遊覧船よゆらりと… 花火大会の日には隅田川を 小舟が大混雑していたようです。 お猪口を片手に女性の姿、 一杯やるもの恒例というのも、 いまも変わりませんね。 《東都名所 両国の涼》  歌川国芳 1830-1835年頃 宴が始まれば… どれが主役だったか、 分からなくなりますね。 《東京開化狂画名所 両国川開  芸者花火に夢中となる 》  月岡芳年 これはかなり密すぎますし、 違うものを鑑賞しては いけません(汗) 《武蔵百景之内 両国花火》  小林清親 1884年 落ち着いた花火鑑賞、 これぞ粋 というもの。 《東京名所画帖 両国橋之夕景》 「打ち上げ花火、  下から?横から?」 の話を… 下でも横でも同じだけど、 丸く広がらず… 平べったかったら??? 何処から誰と見るの?。 そんな問いかけなんでしょうね。 《新撰江戸名所 両国納涼花火ノ図》 物語は夏の花火大会の日、 港町で暮らす主人公は 幼なじみと灯台に登って 花火を横から見る約束を… 《東京名所四十八景 両国乃花火》  昇斎 一景 1871年8月 花火の上がる日に限らず、 今日という日は今日だけです。 もう一度同じ日を やり直すことを願うが… まったく違う日に やりなおしはありません。 かけがえのない時と出会い、 日々たいせつに(・ω・)v

日本人の嗜好をさぐる⑲ 天神祭の変革

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《浪速天満祭》五雲亭貞秀 7月25日は天神祭、 新型コロナウイルスで実現した 神事「本宮祭」YouTube配信 は、 約4千人の視聴があったそうです。 平安時代に始まった天神祭は、 千年を超える歴史を誇るのですが、 京都の祇園祭とあえて比して、 ウチの奥義は観てもらおう と… 「今年の祭りは  コロナによって縮小されたが、  ライブ配信によって多くの人と  神事を共有できたことは  とてもよかった。  国内外の人に日本の神道の文化に  興味を持ってもらえる  機会になったのでは。  これからも祭りの映像を  残していくなどの  試みを続けていきたい」 寺井種治宮司のコトバ。 《浪速天満祭》五雲亭貞秀 実は…天神祭の祭日が 7月25日となったのは、 意外に新しいのです。 1878年のことでして、 明治5年の新暦採用 が キッカケとなり、 試行錯誤の末に 7月25日となりました。 それ以前は旧暦の6月25日、 菅原道真のお誕生日でした。 「天満宮七夕祭」の図 戦国期より古い時代には、 天神祭は7月7日だったとか。 おそらく鎮守社であった 大将軍社 の影響なのでしょう。 太白星 (金星) の精である 大将軍の星祭 である 7月7日が祭日なのです。 《浪速天満祭》五雲亭貞秀 《浪速天満祭》は、 歌川派の 五雲亭貞秀 が描いたもの。 1859年(安政6)に描いた木版画で、 精密な俯瞰図は貞秀の得意とするもの。 三枚続きの大判錦絵が、 大川の船渡御を俯瞰されています。 中央の打ち上げ花火の左右には、 玉造社 と 真田山イナリ の注記。 大阪城の南方に位置する 玉造稲荷神社 と 三光神社 のこと。 鳳神輿 と 玉神輿 がみえます。 御鳳輦が現在の天神祭では、 陸渡御、船渡御の中心ですが、 江戸期では天神様の乗る鳳神輿と、 法性房尊意 の乗る玉神輿の 二基が中心だったそうです。 天台宗の高僧である尊意は、 「荒ぶる神」 になったときに 天神様を法力で鎮める役目を 期待された神様のこと。 船上でも相並んで 渡御していたそうですが、 神仏分離令 の影響なのです。 《天神祭礼図》 渡御列の中心は御鳳輦です。 御鳳輦とは、屋形の上に 鳳凰を飾った乗り物で、 本来は天皇の公式の乗り物。 千年の歴史を誇る 天神祭と感じさせますが、 天神祭に御鳳輦が登場したのは 1876年のことなのです。 明治

日本人の嗜好をさぐる⑱ きゅうり

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『本草図譜』より胡瓜 「祇園会や 胡瓜花さく 所まで」 元禄期の俳人 清水超波 の句。 《祇園祭礼図屏風》 部分 寛永期 祇園社の神紋・瓜の紋が 胡瓜のさなごの形 と、 類似しているとも… 牛頭天王への供物として、 初なりの胡瓜は川へ流したとか。 取って食おうと天王を 追いかけてきた鬼が、 胡瓜の蔓に足を取られて転倒。 祇園の神と胡瓜との関わりは、 数多く残ります。 『和漢三才図会』 には、 「祇園神、胡瓜の社地に  入る事を禁ず。産土の人、  これを食ふ事を忌む」 とあり、 昔の京都では胡瓜を食べる人が 少なかったようで… 祇園祭の行列も胡瓜畑の 手前で止まるのが しきたりだったようです。 《江戸名所道化尽  廿四 数寄屋かし》  歌川広景 胡瓜が好物といえば 河童 、 祇園神も大好物でしたが、 夢で目を傷められたから、 仇の胡瓜は食べませんと、 忌み嫌っているとも。 《河童と胡瓜》北雅 京都には土用の丑の日に 「きゅうり封じ」 を執り行う お寺があります。 真言宗開祖・ 空海の「秘法」 、 胡瓜にパワーを帯びさせ、 参拝者は体の悪いとこを撫でる。 撫でた胡瓜は土に埋めて 病気平癒を願うというもの。 《茄子と胡瓜》児玉徹 きゅうりは水分が多くて 腐りやすく早く自然に帰る。 そんな特性を知っての ことだろうか… 《きゅうり》児玉徹 胡瓜は夏バテに 効果があるとされます。 今が旬をあえて封じることで、 疫病退散を祈願し、 祇園祭が無事を願うともの。 好きなものを一定期間、 断つことで願いを叶えてもらう 願掛けの 「断ち物」 なのでしょう。

日本人の嗜好をさぐる⑰ 茄子

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《一富士二鷹三茄子》 白隠  富士は「無事」鷹は「高い」、 茄子は「~を成す」 に通ず。 家康が好んだ縁起ものとも… 《米俵と大黒さんの  一富士二鷹三茄子》 なすの原産はインド で、 文献から奈良時代には すでに日本での栽培が 記録されています。 平城京出土の木簡には、 粕漬けのなす 「 韓奈須比 」の進上が、 記されています。 元々の名前は「なすび」。 『五畿内産物図会』 より 宮前大根・ 本庄茄子 ・吹田慈姑 「なすび」が「なす」 と 呼ばれるようになったワケ。 室町時代の 女房詞 にルーツ、 女房詞とは、宮中に仕える 女房たちが使っていた いわば隠語のようなもの。 のちに将軍家の多くへ、 そして町家の女性たちに 広がったようです。 《台所美人》 喜多川歌麿 なすびの語源には他にも諸説あって、 夏に実がなることから「 夏実 」、 酸っぱい味がしたから 「 中酸実  (なかすみ)」と呼ばれ、 「か」が省略されて転化したとも。 "なす"という女房詞が登場したのは、 室町時代の調度などが置かれた 御湯殿に仕える女官の日記、 『御湯殿上日記』 にみられます。 「松木より なす の 小折まいる」 との記録がみえるのは、 文明15年(1483年)のこと。 《初夢見立》 喜多川歌麿 「なす」は江戸の人たちには、 とても人気でしたので… 縁起物として人気を博し、 一般的になったそうです。 一に富士山、二に愛鷹山、 三に初なすの値段 と、 駿河国で高いものを並べたとも。 徳川家には駿河で栽培されていた 折戸なす が献上されていました。 《なす 雀園竹世》魚屋北渓 茄子でよく聞くコトバ、 「秋茄子は嫁に食わすな」 。 美味であるから他家からの 憎い嫁に食わせるなとの、 嫁いびりの格言 と知られますが、 茄子は食べ過ぎるとカリウムの 利尿作用により体温が下がり、 体の冷えが婦人病を 起こしやすくなるため、 姑が嫁の身体を気遣い 生まれた言葉 というのが、 実は本当の意味なんだそうです。

日本人の嗜好をさぐる⑯ 祇園祭

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《祇園祭宵山》徳力富吉郎 7月1日の「吉符入」にはじまり、 31日の境内摂社「疫神社夏越祭」 で幕を閉じる祇園祭… ただコロナ収束、疫病退散の願い、 2020年の祇園祭には、 神輿、山鉾は動きません( TДT) 《祇園祭山鉾図》  円山応挙  1764年 歴史の中で幾度となく 神輿、山鉾が動かなかった ことはありますが、 町衆の営みにディスタンスは 似合わない。 いつか来る賑わいを信じて 今年は違う夏を楽しみましょう。 いま 京都文化博物 館では、 「 祇園祭 −京都の夏を彩る祭礼− 」 という展覧会が行われています。 懸装品・飾金具・古文書・ 絵画など100点以上… 圧巻の展示でした。 占出山 の胴懸と前懸。 松島之図、天橋立図、宮島之図。 ちなみに見送は富士山図。 保昌山 の胴懸。 円山応挙の下絵 「巨霊人虎図屏風」は、 保存会に遺る。 前懸の下絵も応挙の筆、 「蘇武牧羊図屏風」。 《祇園祭 七月十七日》  徳力富吉郎 実は夏の風物詩の祇園祭、 奈良大学の 河内将芳 准教授によると、 室町幕府の意向が強く、 町衆と主催する祇園社は すこし逃げ腰だったとか。 三者の微妙な力関係の元で 続いたそうですが、 ときには12月にずれ込んだ こともあったとか… 《京都祇園祭》前川千帆   山鉾巡行で先頭を行くのが 長刀鉾 の創建は1441年とされ、 高さ21.7m。重量は7.3t。 鉾の頂に 三条小鍛冶宗近作 の 大長刀を飾ったことが始まり。 東京国立博物館に所蔵される 国宝「 三日月宗近 」、 天下五剣の名刀の一つです。 《皇都祇園祭礼 四条河原之涼》  歌川貞秀 1859年 実は各山鉾保存会は、 公益法人改革法の施行もあり、 山鉾そのものの評価を迫られ、 新たな局面を迎えているのです。 鉾町ではなく広く支援が 必要な時代に…コロナ禍、 来年こそは賑わいを期待しましょう。 函谷鉾 の大屋根軒裏の"けらば板"、 今尾景年 が筆をとった 「金地著彩鶏鴉図」。 鈴鹿山 の欄縁角飾金具 木賊山 の角金具には、 軍扇の中に兎の姿。 そして・・・ 菊水鉾 の鉾頭。 左は 竹内栖鳳 肉筆の 孟宗山 の見送、 右に上から… 菊水鉾 胴懸「麒麟図」、 浄妙山 宇治橋、 霰天神山 回廊。 左上から時計回りに、 太子山