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《聖徳太子絵伝》をみる① 絵殿と絵伝

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《摂津国四天王寺図》 四天王寺  江戸時代 18世紀 絵殿とは「絵堂」 ともいい、 聖徳太子絵殿を安置する堂のこと、 四天王寺では奈良時代にすでに存在、 『天王寺秘訣』 によると太子薨去 百三十年忌 752年(天平勝法4)に、 その記述をみることができます。 平安時代には聖霊院の南西隅、 現在の 南鐘堂 の位置 とか… 元和9年(1623)再建絵堂がみえます。   《聖徳太子絵伝》狩野山楽筆 四天王寺  江戸時代 1623年(元和元)  第4壁一部・第5壁一部 奈良時代の絵堂は960年に焼失、 11世紀前半に再興されたものの、 荒廃と戦火に見舞われる。 絵堂の絵伝として現存するのが、 1623年に 家康の命 で描かれた 狩野山楽の描いたもの。 山楽65歳の筆となるものですが、 二度にわたる制作となったもの、 前回は 豊臣秀吉のオーダー でした。 《聖徳太子絵伝》狩野山楽筆 四天王寺  第6壁一部 その後も絵堂には火災がつきまとう、 1801年(享和元)の落雷火災 、 1863年(文久3) 聖霊院灯明の不始末による失火、 聖霊院は1879年に復興されたが、 ようやく1979年になって、 絵堂が再建されましたが、 絵堂跡には 南鐘堂 が建立されており、 聖霊院北側での復興 となっています。 1769年(明和6) の 太子千百五十年御忌 を 契機として、絵堂絵伝の更新が図られ、 山楽本は取り外され 、 新しい絵伝がはめ込まれたようです。 1813年(文化10) に再建された 絵堂に納められたのが、 橘保春 (たちばのやすはる)によるもの。 《聖徳太子絵伝》 橘 保春 筆 四天王寺  1813年(文化10) 第一面・第二面 実は… "保春本"は襖絵形式なのに 引手がないのです。 そのワケは建具としての襖でなく、 観賞専用として制作だったのです。 六面の収まる大型の箱が用意され、 絵伝を「収納する」という意図 。 四天王寺絵堂絵伝の大きな特徴、 裏面に別主題の絵を描く ということ。 尊智本 には 九品往生人図 、 山楽本 は 二十八部衆 、 保春本 には 十六羅漢 といった具合。 《聖徳太子絵伝》 橘 保春 筆  四天王寺  第三面・第四面 " 収納される絵伝 " 保春本 の話に戻します。 享和火災の教訓もあって、 災害時には木箱―つ

みやこの国宝への旅⑨ 神に捧げられた大鎧

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国宝指定 1951.06.09 「 小桜韋黄返威鎧 」 「こざくらかわ きがえし おどしよろい」  と読む。広島・ 嚴島神社 所蔵。 「戦闘において体に着て身を守るための  外装・防具と甲冑という」 「京の国宝」 展の図録はこんな書き出し… 「 札(さね 札板とも) 」と呼ばれる 鉄製や革製の短冊状にし、 漆で固めたものを上下に何段も 並べて絹糸や革紐で綴った防具、 「威す」とは縦に繋ぐこと の意。 鞍の前輪と後輪(しずわ)に あたらないよう前後の草摺は短く、 下腹部から大腿部を守る草摺は長く、 源為朝 の奉納とされるが、 機動力を騎馬戦での 実用の大鎧 。 鎧そのものの可動範囲が狭く、 兜鉢は肉厚の鉄一倍張り 十二間筋状の 星兜 、 厳星 (いがぼし)という複数突起、 兜鉢から垂れ下げて顔と頸を守る 𩊱 (しころ)が緩やかに吹き返す古様。 国宝指定 1951.06.09 「 浅黄綾威鎧 」 「あさぎあや おどしよろい」  と読む。広島・ 嚴島神社 所蔵。 源義家 所要と伝わるが、 時代の下がる 鎌倉後期のものとか 。 札板が小ぶりで、 鉄札と革札を交互に重ねた一枚交ぜ、 鉄札だけの部分もみられ、 戦闘で受けた痕跡からも、 実用の「 式正鎧 」の格式をみせています。 兜の鉢は 四方白星兜 、 眉庇には 縦型の鍬形 が立っています。 絵韋は 獅子牡丹文染韋包 、 弦走と吹返の韋に 不動明王と二童子 。 《紺糸威鎧》嚴島神社  (国宝 1951.06.09指定) 平重盛 奉納と伝える大鎧、 京博開館120周年の国宝展 には、 こちらが登場していました。 総体を紺糸で威しており、 ところどころ後世の紫糸で補う。 栴檀板・鳩尾板、袖の冠板など、 菱襷獅子丸文を表した染韋を張る。 兜鉢は鉄製十八間の 星兜 で、 眉庇・吹返は 獅子牡丹文 の染韋。 鳩尾板には大型の 金銅菊座据文金物 を打つ。 《赤韋威鎧》岡山県立博物館保管  (国宝指定 1999.06.07) 甲冑の"保存" という面で 国宝指定となっている 対極の国宝2領 も 紹介しておきます。 かつて 備中国赤木家 に伝来したもの、 兜の眉庇の染韋や金銅据文金物など、 鎌倉時代の一部改変されていますが、 総体に 制作当初の姿を伝える 逸品。 《白糸威鎧》島根・日御﨑神社 (国宝指定 19

女の人の最後ばかりを綴る『源氏物語』

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長編小説『源氏物語』には、 「女の死」の場面ばかり が綴られています。 葵上も、藤壺も、夕顔も、 そして六条御息所も… ただ国宝《 源氏物語絵巻 》には、 臨終の場面は見当たりません。 ただ一昨年 「夕顔の死」 を描いた 幻の源氏物語絵巻 が発見されたのです。 《源氏物語絵巻》巻三 横笛 死の場面を絵画化したくない、 暗い場面を出したくない。 よく知る 国宝《源氏物語絵巻》 には、 ほとんどみられない表現なのです。 六条御息所に祟られたのか、 物の怪に魂を奪われ横たわる夕顔、 17歳の光源氏らが泣いて悲しむ… 《盛安本 源氏物語絵巻》 断簡。 フランスのとある蒐集家が所蔵、 学習院大学の 佐野みどり教授 の鑑定。 佐野みどりさんと言えば、 虎次郎 憧れの絵巻研究者 … 美術誌 「國華」 の主幹でもあられた人。 《盛安本 源氏物語絵巻》は 江戸初期の 1650年代の制作 、 杉原盛安 の"印"があるこに因み” 盛安本 ”、 盛安は古典文学に高い素養を持ち、 スポンサーとされる 公家 九条家 とも、 和歌などを通じてつながりがあって、 絵巻の奥書にある" 市川光重 "らの 絵師たちをとのパイプもあったとか。 《盛安本 源氏物語絵巻》「末摘花 上巻」  1650年代 石山寺蔵 国宝 《源氏物語絵巻》 と対極にある キンキラキンの世界 が広がっていて、 フランスでは 《黄金の庭絵巻》 とも… 実は庭に漂う金雲の地の部分が、 鑑定の決め手だったそうで、 金粉を圧着するために瑪瑙で 磨いた跡の存在が"盛安本"の 最大の特徴だったそうです。 国宝《源氏物語絵巻》柏木 産褥の床に伏せっている" 女三宮 "… 衝立など歪なラインが走っています。 平安期の 《源氏物語絵巻》 では、 不吉な場面を忌避するため、 死の場面は絵とせず構図と情景 で 表現したともいわれています。 ではなぜ” 盛安本 ”は、 夕顔の死が描かれたのか? 「夕顔の死を敢えて  描こうとしたのではなく、  原作に忠実に絵画化しようとしたら、  描かないわけにはいかなかった…」 蔵書家だった盛安の 「すべてをコンプリートしたい」 という コレクター魂のなせるワザ 、 『源氏物語』54帖 すべてを絵画化、 完成すれば200巻以上になったとも…

《春日権現験記絵》にみる巫女の姿

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《春日権現験記絵》 巻一第一段の冒頭、 橘氏の娘に春日大明神が取り憑き 託宣したことが記されています。 春日大社に 橘氏の娘という巫女 が 常駐していたらしく、 時代を隔てて何度も登場するのです。 一代限りの一人の女性をささずに、 橘氏の娘として代々継いでいく… 巫女の家筋が存在していました 。 《春日若宮御祭礼絵巻》 上巻より  奈良・春日大社 春日大社は民間の芸能民との縁が深く、 "おん祭" ではさまざまな舞が奉納、 芸能民の一つに 遊女(あそびめ) がおり、 "遊女"が雑芸や 鼓打ち などを 担っていたことが知られています。 《法然上人絵伝》 より 『 梁塵秘抄 』に「 遊女(あそび) の好む物、 雑芸、 鼓、小端舟、簦翳(おほがさかざし)、 艫取女、 男の愛祈る百大夫。 」 遊女たちは、宿場町や船の発着のある宿場で 芸を披露し、お客をとっていたのです。 《法然上人絵伝》の 室津の遊女 を イメージさせる事物が並んでいます。 映画『 君の名は。 』でも巫女さん姉妹、 くるくると回転しつづける舞、 神を憑依させ、神のことばを託宣する 。 ただなんとなく 巫女は若い女性 と 決めつけているのはナゼでしょうか。 《春日権現験記絵》 巻四第四段… 若宮の拝殿で舞を舞っている 巫女が神がかりして託宣をする話、 続く第五段にも若宮の前で集って 神楽を舞っている巫女から託宣を得る。 よく知る"巫女"の姿を「験記絵」で、 みつけることはできない のです。 「 《春日権現験記絵》に居る "こどもたち" 」 で登場させたこのシーン。 蛇をいじめていた子どもが重病におち、 護法占 (ごほううら)をすると、 春日大明神が憑依 したという。 春日大明神を神降ろしした者とは、 " 鼓巫女 "だったというのです。 手前の部屋で大きなお櫃を台として、 塩をのせた盆が置かれています。 その脇に鼓を前に置き、 病人を指さしている性別不詳、 実は この老女が巫女の姿 なのです。 老女の向かい背を向ける男は、 数珠の輪を繰る 山伏 の姿。 この巫女は 巻十五第二段 も登場、 詞書によると… ある僧侶が春日大社で居眠りしている お坊さんの頭を足で蹴飛ばしたことろ、 病気になったので巫女を呼んで 春日大