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2月, 2023の投稿を表示しています

京の冬の旅2023+ キネマと等持院

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等持院 境内に立つ マキノ省三像 。 1921(大正10)年に境内に 牧野教育映画製作所 の撮影スタジオ、 等持院の門をくぐった左手の住宅街、 かつての撮影スタジオの跡なのです。 山門をくぐったあたりにスタジオ。 等持院は尊氏がたてた 足利氏の菩提寺ではあったが 、 明治から大正、大正から昭和へ 移るにつれて「朝敵の寺」へ、 糾弾の輿論は厳しくなった。 「息もつけぬ苦境であった」 と、 作家 高野澄 さんは綴っている。 マキノの功績 ・我が国初の劇映画" 本能寺合戦 "を撮った ・大スター・ 尾上松之助 の発見 ・ 人が消えるトリック映像 を   忍術と結びつけた ことなどなど 剣劇中心の勧善懲悪ものとは違い、 ストーリーを中心とした 人間味のある描写が取り入れられた。 マキノ映画ランキングの1位は 「昭和残侠伝 死んで貰います」 一年ぶりで東映に戻ったマキノ雅弘、 健さんの「残侠伝」シリーズ。 男の意地と女の意地、 叶わぬ恋の機微を絡ませた 1970年作品。 「弥太郎笠」1 960年 中村錦之助 の豪快な殺陣が 堪能できる娯楽時代劇。 舞台が江戸時代なのに セリフは現代語を話すという。 踊る 丘さとみ … 女優がよく撮れてると評価高め。 「清水港の名物男 遠州森の石松」 石松の金比羅代参道中 を 笑いと哀愁が漂わせつつ、 娯楽映画としての秀逸ぶり。 オール物語連載の村上元三の 原作「 次郎長三国志 」から、 「 おしどり駕篭 」の観世光太が 脚色したという。 「牧野の所にいけば、  伝統にとらわれず新しいことが出来る」 様々な才能が牧野のところに 集まってきたそうで… 牧野家のお墓は等持院境内に… 省三を始め息子の マキノ雅弘 など、 映画一家だった家族たちも一緒に。 紅葉のころ… 雪の" 清漣亭 " 初夏の風景 いずれも絵葉書より こないだいったときの残雪 太秦もあるし…嵐電乗って 、 ふたたび訪れたいと思います。 ※このブログは 京都市メディア支援センター 京都の映画文化と歴史  第7回 マキノ省三先生像  を大いに参考にしました。

京の冬の旅2023+ 足利歴代像と家康像

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庫裏に入ると "室町将軍" 足利義満の首 … ポスターは 2019年に九博 で行われた 特別展「 室町将軍 戦乱と美の足利十五代 」。 尊氏像 の面立ちをみると、 僕たちが学んだ尊氏の姿とは、 まったく違った表情をみせています。 衣冠束帯に威儀を正し、 右手に笏を執り、 両足先を交叉させて上畳に座る姿。 ぼくたちの 日本史の尊氏 の姿… 今は《 騎馬武者像 》と称される。 松平定信編『集古十種』 で紹介、 ただ腰太刀と馬具の鞖に" 輪違 "、 足利家の家紋ではなく。 高家の家紋が"輪違紋" であり、 像主は 高師直 かその子 師詮ではないかとする説。 尊氏か否かということも含め、 京博に遺され重文の価値を持つ 。 《 足利義詮像 》 尊氏、義詮、義満の三代の木像、 1863(1863)年2月22日の夜、 首が引き抜かれて三条大橋で曝された 。 首にはそれぞれの位牌を掛け、 「 逆賊 」と題した宣告文… 《足利義満像》 「名分を正すべき今日にあたり、 鎌倉以来の逆臣一々吟味をとげ 誅戮(ちゅうりく)いたすべきところ、 この三賊は巨魁(きょかい)によって、 まず 醜像へ天誅を加うるもの なり」 伊予の 三輪田綱一郎 や 水戸の 師岡節 斎など、 宣告文は会津の 大庭恭平 … 尊王攘夷派の志士たちの所業 。 《足利義昭像》 等持院の歴代木像は文化5年の火災、 その時にも異変を生じている。 「あす僧にきいたはなしだが、   相國寺の等持院 の足利将軍の  歴代十三代の木像が、  十余年むかしの火災のとき、   焼失をおそれて池に投げ込まれた。  火がおさまって  木像を引き上げたところ、  木像ではなく塑像であったらしく、  ひとつのこらず壊れていたそうだ 」 《 足利義政像 》 水戸松前藩主の松浦静山という人、 随筆の名作とされる『 甲子夜話 』、 48歳のときに記したものとか。 相國寺は天龍寺の間違いだろうが、 悪人が騒ぎに乗じて木像を隠し、 「塑像」と噂を流布して 木像を売ろうとしたのが真相 。 《足利義勝像》 9歳で将軍になるが8カ月で病没。 父 義教は義満の子" くじ引き将軍 "、 強権的で最期は殺害される。 歴代木像の祀られる 霊光殿 。 カメラNGなので…木像はHPより。 絵葉書に

京の冬の旅2023+ 洛西の古刹 等持院 へ

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洛西の古刹 等持院 、 ただ洛中に 等持寺 がある。 院と寺が京都に2つ、 足利尊氏 が夢窓国師 開基の 等持寺を1339(暦応2)年に、 後醍醐天皇 が吉野で崩じて、 その年に暦応寺が創立。 「足利氏の立場から」 と 尊氏が 元弘以来の戦没冥福 に 資するために建てたのが、 衣笠山麓に" 等持寺の別院 "。 義詮 の追悼記に「 仁和寺の等持院 」、 仁和寺の塔頭か子院の一つだったとか。 疎石を開山とする禅院に改め 、 衣笠山麓の方を北等持寺か北寺、 洛中のを南寺、南等持寺と称した。 尊氏が薨ずると法号にちなんで、 北寺は 等持院 と呼び改められた。 庫裏の玄関に入る表門には、 名称庭園 史跡木像 等持院 とある。 薬医門という形式で、 1808(文化5)年の火災後の再建。 境内伽藍からかなり離れた 山門 、 室町期は広大な寺域を誇っていた。 相國寺、等持寺、そして等持院は、 幕府から特別視 されていて、 室町の禅は権力・体制と密着。 "不立文字"の禅僧が 計数に明るかったのは、 厖大な寺領を誇っていた所以 。 禅宗寺院方丈では庭園前は唐門だが、 等持院のは" 唐門 "と称すものの、 唐破風はなく切妻造、桟瓦葺 。 正面妻飾に三重虹梁蟇股式、 大瓶束を組みあわせた" 庫裏 ”、 1808(文化5)年の火災後に再建。 棟に煙出しの櫓を載せる。 安土桃山・江戸初期の武将、 福島正則 によって創建の 妙心寺塔頭 海福院の客殿 として、 1616(元和2)年に建てられた方丈。 方丈南側の石庭は、 天龍寺管長で等持院住職でもあった 関牧翁老師 によって整備されたもの。 初夏の風景は絵葉書より。 方丈の仏間には定印を結ぶ 釈迦如来坐像 が臨まれる。 後世の漆箔で厚く 覆われているものの、 平安様式を伝えます。 " 大聖歓喜天像" もとは境内の池の中島にあった 聖天堂に祀られていたもので、 1934年の室戸台風で倒壊、 方丈に移されたもの。 夢窓国師像とともに… 現在の等持院庭園は 大きく二つに分かれる。 人によって呼び名は異なるが、 東の 心字池 (しんじいけ)中心の庭園と 西の 芙蓉池 (ふようち)を中心をするもの。 庭園関係者のあいだでは、 東の心字池は夢窓国師が造った 池の面影が残さ