京の冬の旅2023+ 高台寺 圓徳院


大徳寺 三玄院…留守中に訪ね、
周囲の制止も聞かずに
一気に描き上げた「山水図襖」…
三十二面が移った高台寺 圓徳院

"ねねの径"界隈はよく行くのに、
はじめてのご訪問で境内へ…

門前には石碑
重要文化財 長谷川等伯障壁画

襖絵は金箔の家紋を押した
唐紙の上に水墨で描かれています。
さぞ画き難かったでしょう…

一見素朴な風景が、
桐花紋を牡丹雪と見立てて
眺めると雄大な冬景色へ…

住職激怒のポイントは、
よりによって"桐花紋"に描いたのか。
秀吉公への気遣いもあり、

春屋宗園逆鱗に至ったのかも知れませぬ。
よくもまぁ~太閤さんの紋に墨をと…
圓徳院へと移されたのは、
明治初年の廃仏毀釈の時。
それまでは人知れずに三玄院
あったのだろうと思えます。

ちなみに圓徳院でみれるのは、
キャノンさんらが手掛けた
綴プロジェクト」による再現。
文化財未来継承プロジェクトは、
特定非営利活動法人 京都文化協会
との共同プロジェクト。

ホンモノをみることも大事ですが、
普段は高精細複製品を据えて、
カメラもOKにしたらどうか?

ちなみに原本は京都国立博物館
石川県七尾美術館に寄託されています。

ねね坐像も複製…
これで十分だと思うのです。
どんどんSNSで発信してもらい、
拝観収入を確保し保存資金にする。
その昔 興福寺の本坊の土塀を切り
本尊を特別公開されていたとき、
「仏さまに稼いでもらわないと」
そんな取り組みは拡がりつつ…

秀吉像もレプリカです!
御寺や菩提寺には檀家不在、
清水寺も檀家はおられない
まさに多くの民が長い時代で
支えられてきたのです。
秘仏も非公開も前例にとらわれずに、
見てもらえる時代に見てもらって…
レプリカ作れるうちに作っておきましょ


南庭を臨む室中には「白龍
荒れ狂う波涛を飛び出し、
一気に天をめざす白龍の姿。
乱世を己が力で統一した
 秀吉そのものである。
 武将の魂がよみがえり、
 絢爛たる桃山の風が吹き抜ける。
 いま、ねね終焉の地に、
 新たな物語がはじまる。

圓徳院の解説にはこうある襖絵は、
1995年の方丈改修で赤松燎さんが
筆を執ったもので奥に本尊を祀る。
赤松画伯は翌年に逝去されたため、
画き遺した分は弟子たちが継いだとか。

"圓徳"の扁額がかかる唐門より…
豊臣秀吉の妻、
北政所ねねが晩年19年間は、
この圓徳院に住して秀吉 菩提寺の
高台寺にここから通ったそうです。

唐門くぐると右手にあるのが
"秀吉公好みの手水鉢"、
秀吉が西尾家に世話になった
お礼として贈ったもので、
西尾家は今川義元の親戚筋とか。
白砂の線引きがされた"南庭"
庭師 北山安夫 監修の作庭。

「白龍」の襖絵と
連続しているのでしょうか。

方丈右手は 木下育徳さんの
松竹梅図襖

筍がのびのびと…
花はツツジ、蒲公英や桜なども。
木下さんは赤松画伯の下絵を
引き継いだ弟子にあたります。

上間の間 には「雪月花
赤松画伯の弟子の 志村正さんの筆。

秋草とともに満月が顔をみせる。

"南庭"の白洲に島

雪松から飛び立った
鶴二羽の目指す先やも…

ねね を支えていたのが、
兄の木下家定と家定次男の利房
軸は圓徳院の"木下利房坐像"。
圓徳院は利房の手により、
高台寺の三江和尚を開基に、
木下家の菩提寺として開かれ、
高台寺の塔頭とされました。
木下利房の戒名は
円徳院殿半湖休鷗居士」、
ねねは高台寺に祀られますが、
圓徳院は木下家菩提寺であり、
利房の墓所があるのです。

石塀小路につながる
圓徳院内の小道"ねねの小径”。
低い位置の枝を除け、
日光や月明かりが枝葉を通し、
小径を彩る作庭がされています。

印象的な手水鉢…

北方丈の入口に座を組む狐…

江戸期御所周辺に出没の"宗旦狐"、
茶の湯の宗匠に化けて、
茶会に出たり、僧侶にも…

枯山水の庭がここにも…

桃山時代の雰囲気を残しますが、
もとは池泉回遊式の大名庭園
伏見城の化粧御殿前庭を移設、
ただ規模が大きすぎたため、
枯池泉座視式に改めされてもの。

もとは賢庭の作庭で、
小堀遠州が手を加えたと…
地区山を中心に石組を
二等辺三角形にまとめ、
巨岩大岩が置かれるのは、
桃山時代の豪華、豪胆さ。

"化粧されたように美しい"、
伏見城にあった"化粧御殿"を移築、
ねねは余生を過ごしたとされます。

ただ残念ながら度重なる戦火で、
御殿は焼失しているのです。

客殿にある"蓮独鯉襖絵"
鯉は右手に描かれていました。
等伯「山水図襖絵」に感銘の
藤井湧泉画伯が描いたもの。
中国出身で京都市立美術大学の
梅原猛学長から画号を授かった人で、
日本の装飾美の"引き算の美学"を
中国に紹介したいと取り組まれたもの。
豊臣秀吉の御用絵師へのステップ、
等伯の「山水図襖絵」
一歩間違えれば等伯自身の存在さえも、
伝えられないものだったかも。
一世一代の大博打を打ったのか、
等伯の決して諦めない気概なのか

時が移って圓徳院に遺るのは、
"歴史のなせる必然"なのでしょうか。

入場券とともに頂いた朱印…
玄関にてお護りいただきます。

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