京の冬の旅2023 大徳寺 総見院


秀吉奉納の織田信長公坐像
総見院の本堂仏間に安置のもの、
1583(天正11) 年に慶派仏師
康清に2体作らせたもの
で、
「七条大仏師宮内卿法印康清
 天正十一年五月吉日」との銘あり。
1体は遺骸の代わりに火葬、
市中には芳香がたちこめた
伝わっています。

大徳寺 総見院は
信長亡き後の政権争いの中、
秀吉は その主導権を握るため
明智光秀に討たれたその100日後
大葬礼を信長遺児であり
豊臣秀吉の養子 秀勝を喪主とし、
大徳寺で執り行われました。

信長の一周忌に間に合うよう
建立されたのが総見院で、
"総見院殿 贈大相国一品泰厳 大居士"
寺名は、信長の戒名に由来します。
総てを見通す」という、
時代の先を走る信長らしい
戒名をつけたのは開祖 古渓宗陳
千利休参禅の師でもありました。

文化遺産データベースによると…
「ヒノキ材を用い、
 頭体を別材から造り、
 頭部は前後二材、
 躰部は正・背面各三材を
 中心に数材を寄せて箱状に組む。
 玉眼嵌入の彩色像で、袍は黒、
 表袴には白と黒で石畳文の地に
 五葉の木瓜文を描き…」とあり、
香木というのはヒノキらしい。
唇が薄く、頤が尖った面長で、
神経質そうな顔立ち…

もとは船岡山東に建立予定の
"天正寺"に安置される手筈…
計画が頓挫し総見院に安置された。
神仏分離令後の廃仏毀釈の折、
木像は本山に避難していたので、
危うく難を逃れたのだとか。
1961年の信長380年忌に、
この御輿に載せて本堂に戻された。

もう一つの特別公開の信長…
初公開の肖像画は、
狩野派の絵師の筆による。

本堂(方丈)には、開祖 古渓宗陳
木像も祀られていました。

本堂前には茶筅塚
花生けが茶筅の形。

茶室 寿庵の蹲も茶筅を思わせる。

総見院には3つの茶室…
茶の湯は関わりが深く、
秀吉の"大徳寺大茶会"では、
総見院方丈に秀吉が
茶席を設けた
との記録が残ります。

茶室 香雲軒
表千家の十三代 即中斎の好みの茶室。

表千家・而妙斉
の筆による
扁額を掲げる 茶室 龐庵
とても大きなという意の"龐(ほう)"
犬山から移築されたものとか…

網代の設えがみられます。
茶室 寿安席
明治から昭和にかけて活躍した
大阪に"山口商店"を興した
実業家 山口玄洞が寄進したもの。
豊臣家の家紋である五七桐が
襖に描かれているそうです。

"胡蝶佗助"は蕾ふくらむ…
1583年の総見院の建立時植栽、
秀吉が利休より譲られて植えたとも。
枝が3本に分かれ、紅白の花をつける。

茶人の切り花に重用され、
樹齢400年ともいわれ、
日本最古とされ樹高6.4m。

方丈横にある"掘り抜き井戸"
加藤清正文禄・慶長の役で、
朝鮮から持ち帰ったもので、
一つの朝鮮石で作られた。

戦から帰船する際に、
船の均衡を保つために使われたもの。
戦死した兵士分の重しとして、
空船に代わりに石や灯籠を積んだ
とか。
井戸の深さは10m以上あり、
鴨川伏流水が今も湧き
毎朝のお供えにも使われているとか…
学生ボランティアさんが
説明してくれました。


表門、土塀は1583(天正11)年、
創建時の姿を残しています。
土塀は"親子塀"と呼ばれるもので、
塀の内側にもう一つ、
塀が設けられた珍しい構造。

南側土塀の外にある
鐘楼と鐘も創建当時のもの。
塀を強固にするため、
内部の空洞部分に非常時に
武士が隠れたとか…




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