京の冬の旅2023 清水寺 成就院


清水寺の参道を抜け
仁王門から左に下りると、
"清水の舞台"本堂の北側、
奥まった一角に本坊 成就院

五条坂から茶碗坂をあがり

仁王門、西門、三重塔
インバウンド好きの朱塗り。

三重塔の左脇の馬駐から
真直ぐ続く石段…
随求堂の絵馬掛けの側に
←成就院との碑石

石段をおりると…池が広がる。
池の東南部分は高台で、
位置的には地主神社に繋がる。

成就院は北法相宗 大本山 音羽山
清水寺の塔頭ですが、
応仁の乱で焼失した清水寺を
復興した願阿上人によって
文明年間(1469-87)に創建。
以降、清水寺の本願職を
伝統としているとか…

室町時代初期の赤松氏山荘の跡地で、
1735(享保20)年の『築山庭造伝』、
1799(寛政11)年『都林泉名勝図
に写生図が残されていて、
当時から名園として名高かったとか。
院内は撮影NGでしたので、
買い求めた絵葉書などから…

通常非公開で春秋のみ特別公開…
冬に公開されるのは稀で…

こちら雪景色…
この間の大雪だともっと
積もっていたかも知れません。
軒下に雪が少し残っていました。

約150年ぶりに北野天満宮
花の庭」が再興されたことで、
京の雪月花の三庭を同時期に
鑑賞できる冬なのです。
ちなみに「雪の庭」は妙満寺
成就院は「月の庭」。

書院から座鑑すると、
緑輝く池泉の景…

清水寺復興をてがけた願阿上人
越中国の漁師の家に生まれとされ、
時宗に入り勧進聖に…
当時流失していた五条大橋
富裕層から寄付を募り架け替え、
南禅寺 仏殿の再興も手掛けた人。

清水寺も灰燼に期した応仁の乱
戦いというものはたびたび
自然災害をきっかけとするもの。
1459年から1461年にかけ
全国を襲った長禄・寛正の飢饉
関東地方の享徳の乱
畠山氏の家督争い、
斯波氏の長禄合戦など事態が深刻化。

飢餓と疫病で1461(寛正2)年の
最初の2ヶ月で京都で
8万2千人の死者が出たとも、
将軍 足利義政は酒宴に溺れ、
寛正の飢饉の間も"花の御所"を改築。
応仁の乱後の願阿上人は、
大勧進により清水寺の梵鐘を…
1484(文明16)年諸堂を落慶、
成就院 願阿と呼ばれることとなる。

江戸時代末期に成就院が
歴史の表舞台に現れるのは、
第24世月照第25世信海
兄弟を輩出したことによる。

月照は1854(安政元)年に
寺務を実弟の信海に譲り、
寺を出て攘夷運動に挺身
この地で1855(安政2)年に、
西郷隆盛有村俊斎らと
密議を重ねたとされています。

安政の大獄
近衛忠煕の勧めにより
西郷と有村とともに薩摩落ち
島津斉彬が急死し、
死を覚悟した月照
1858(安政5)年11月に
錦江湾に入水で亡くなるのです。
月照の後を継いだ信海も、
幕吏に捕えられ江戸伝馬町獄舎
獄死したのが1859年のこと…

成就院の本堂には
月照上人、信海上人
祀られています。
造立は明治期とか…

中島の"烏帽子石"の左手に"蜻蛉灯篭"
夕やみの 庭の木かげに かげろうの
 あるかなきかの 灯影さびしも
月照上人がこう詠まれました。
丸い小さな灯影(ほかげ)
池に揺らぐ様…
夜間拝観のチャンスがあればぜひ。
右手の持仏堂東福門院の寄進、
本尊とともに歴代住職が祀られる。

ライトアップされると…
灯影は写りませんが(T_T)

花頭窓の先に"誰が袖手水鉢"

豊臣秀吉 寄進と伝える

秋にも訪れねばなるまい
相阿弥が作庭、小堀遠州 補修とも、
連歌師 松永貞徳の作とも…

平安の昔から歌枕として詠まれ、
信仰の対象とされてきた
塩釜の岩島を冠した"籬島石"、
初夏はサツキが彩りを添えるとか。

西庭の巨木の樫の木、
"三角灯籠"は珍しいもので、
縁先右方に自然石の手水鉢、
生垣外の紅葉谷が望めるとか。



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