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ならら古墳めぐりvol.2 平城天皇楊梅陵

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平安京に遷都して 間もない時代の天皇、 平城天皇 の陵墓。 「 楊梅陵 」 やまもものみささぎ と読む。 「延喜諸陵式」と呼ばれる 『 延喜式 』巻第二十一記載の、 朝廷が管理すべき 山陵諸墓に関する記述、 陵号命名はここにもとります。 わずか3年余りの在位 、 退位後は「 上皇 」に… その後平安京を 治めることになった 「 嵯峨天皇 」と対立。 平城京・奈良への 再遷都を画策し挙兵を行う 「 薬子の変 」の当事者となる。 「謀反」を起こした上皇、 敗北し出家という経歴。 即位当初の平城天皇は、 官僚制度の改革や 経済の再興に熱心でしたが… 平安京遷都や東北遠征で 民が疲弊していたことに、 ダブル親王の怨霊 。 ちなみに怨霊とは、 早良親王 と 伊予親王 とか。 気苦労が重なったのかも… 平城天皇陵の話に移ります。 直径100mほどの円形ですが、 実は平城宮の建設の際に、 南半分にあたる 前方後円墳 の 「方形」部分を掘削・破壊… 跡地に施設が建設されたとか。 「謀反」の上皇だから… 墳墓もこんな目に? という疑問が上がります。 実際のところは敗北後も 「平城京」の地で 「上皇」の身分が保証 、 迫害されるような立場には、 至らなかったそうです。 とすると… 5世紀の前半の古墳年代は、 平城宮建設時には 既に存在 していたこと… 平安初期に在位の 平城天皇の御陵するのは、 かなり無理がありますね。 で…本当の被葬者は誰か? 最近の研究の一説によると 菟道稚郎子皇子 の名が挙がる。 応神天皇 の嫡子で、 皇太子でもあった人とも… 「市庭古墳」(いちなべこふん) ・平城天皇楊梅陵 ・前方後円墳(方形部消失) ・復元全長250m、後円部復元径140m、  高さ13m、前方部復元幅168m。 ・ 5世紀 ・奈良市佐紀町

ならら古墳めぐりvol.1 開化天皇陵

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「 駅前古墳 」と呼ばれる 春日率川坂上陵 「かすがのいざかわの  さかのえのみささぎ」。 ホテルの脇にある参道は しっかりとした長い道のり… ただ平城宮跡周辺の 佐紀盾列古墳群 の 大王の陵墓と比べると、 すこしこぢんまり。 ただ、 奈良の中心市街地に 突如現れるその姿は、 スケールの大きさを 感じさせます。 築造は5世紀前半とされ、 近世に隣接した 「念仏寺」の一部でもあり、 「 念仏寺山古墳 」。 いわゆる「 欠史八代 」※の 最後の「 開化天皇 」の 陵墓だと 宮内庁の治定 が なされています。 春日率川宮を 皇居としたという 『日本書紀』の記述、 いまの「 率川神社 」 周辺とされていて、 近い位置にあるので、 ここを治定したとも… 古墳は5世紀前半のもの、 それを示す埴輪が出土… ちなみに『日本書紀』によると、 開化天皇の御在位は、 紀元前58年〜98年。 115歳で崩御したとある。 「念仏寺山古墳」 ・春日率川坂上陵、開化天皇陵 ・前方後円墳 ・墳丘長約100m、高さ8m ・ 5世紀 前半 ・奈良市油阪町 ※欠史八代とは? 第2代綏靖(すいぜい)天皇から 第9代開化天皇までの天皇。 系譜に関する記述(帝紀)だけで、 事績にまつわる伝承や記録(旧辞)が、 ほとんど記載されていない。 このため「歴史を欠いた八代」と呼ばれる。 ちなみに 綏靖、安寧、懿徳(いとく)、孝昭、 孝安、孝霊、孝元、開化。

エリア継体vol.5 闘鶏野古墳・番山古墳

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名神高速 に架かる 朱塗の歩道橋 … 今城塚古墳 から 散策ルートを辿ると 「観音寺・闘鶏野神社」への 標柱があります。 参道はもともとココ だったかは不明ですが… 名神高速下には車高制限3m、 バリケードが行く手を阻みます。 手前にこんな鳥居もあった… 水天宮遥拝所 だとか… 天空の参道にもどります。 高速道路を跨ぐだけあって、 かなりの高さに達します。 ちょうど ど真ん中だとこんな感じ。 「 氷室跨道橋 」の銘板 渡り切ると 「 闘鶏野神社 」の社殿。 氷室地区の氏神。 闘鶏 を「 ツゲ 」と読むのは、 鶏鳴が神託を「告げる」 こと に 由来しています。 神社の裏山にあるのが 「 闘鶏山古墳 」。 存在はかなり以前から 知られていたそうですが、 宅地造成計画のため、 2002年4月から発掘調査。 平野に突き出た 丘陵先端部にあり、 全長86.4mの前方後円墳。 後円部から未盗掘の 竪穴式石室2 基が発見、 ファイバースコープ調査で 三角縁神獣鏡 や石製腕飾り、 木棺などが確認されました。 闘鶏野神社は、 天照皇大神、応神天皇、 天児屋根命 等を祭神。 (あめのこやねのみこと) 闘鶏野は、 仁徳天皇 の御代、 額田大中彦皇子 の 猟場であったとされる場所 。 4世紀前半の 三島の王墓 であることは、 間違いなところです。 ほどなくある「 八幡大神宮 」 土室 (はむろ)の氏神さん。 土室とは、 ハニ(粘土)のムロ のこと。 埴輪の製作に携わる 人々が住んだと伝わります。 新池埴輪製作遺跡 がソレ。 社北西の新池周辺からは、 多数の埴輪片とともに 窯跡も見つかっています。 「 番山古墳 」 直径56m、高さ7mの墳墓。 前方部は残っておらず後円部と 外堤の輪郭が確認されており、 墳丘の南から東にかけて 大きな外濠がめぐります。 近くに立つのは、 「 土室遺跡群 」の看板でした。

祇園さんご朱印巡り 後祭その四

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鷹山(たかやま) ご朱印はこの御神体に、 在原行平 が詠んだ 「翁さび 人なとがめそ狩衣  けふばかりとぞ鶴も鳴くなる」 という和歌が添えられています。 鷹山は2026年を目標に 復興を目指す「 休み山 」。 江戸時代から曳山、 天明の大火で罹災…、 寛政年間に復活したが、 文政年間に大風雨により大破、 巡行を取りやめたそうです。 会所に御神体などを飾って 披露する「 居祭 」。 こちらの手書きご朱印にも、 描かれる三体の人形。 鷹匠・犬飼い そして… 樽を背負い隠れて 粽を食う従者 、 会所で披露されます。 復活に向けて… 頑張っておられます。 鷹山(たかやま)  三条通室町西入 衣棚町 鷹山の復活にむけて、 とても大きな役割を 果たしているのが、 横山華山 の《 祇園祭礼図巻 》。 「 岩戸山 」と「 船鉾 」 文化9年(1812) 『 増補祇園御霊会細記 』 などの文献資料では、 「懸装品の上水引に赤地の鳳凰」… などと記されているのですが、 どんな色使いなのか図様は?。 そんなギモンに応えてくれる、 それが《 祇園祭礼図巻 》なのです。 「 長刀鉾 」 山鉾巡行の順番は、 毎年くじで決められる。 ただその記録は、 「 鷹山 」最後の巡行の 文政9年以降が残されています。 ただ図巻に描かれたくじ順、 合致する年がないそうです。 その訳は、鷹山が “ くじ取らず ”だったから。 「 月鉾 」 華山が描く山鉾は、 上下をトリミング。 鉾頭が描かれない。 「 南観音山 」に「 鈴鹿山 」 ただ、 「 鉾と鉾の間は山三基 」 「 山鉾の総数は三十三基 」 というルールで描かれるので、 くじ取らずの鷹山の存在で、 山鉾の特定ができるのです。 上巻は「 保昌山 」から… 「 綾傘鉾 」 「 太子山 」 下巻の二番目に「 役行者山 」 「 鯉山 」 下絵の《 祇園祭鉾調巻 》も 残されていて… 華山の取材力に 脅かされます。