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秀吉奉納の獅子が伝わる 城東区の諏訪神社

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城東区の南にある "諏訪"という地名 、 その由来は長野県にある諏訪大社の、 全国に5千ある分社の一つ "諏訪神社 "にちなむものです。 創建は平安時代と伝わりますが、 定かではありません。 境内最古の石灯籠には、 836年(承和3)4月寄進 と 刻されているとか。 ご祭神は、 建御中方刀美命 (たけみなかとみのみこと)と 八坂刀売命 (やさかとめのみこと)。 建御中方刀美命は" 諏訪明神 "で、 『古事記』の国譲り神話、 タケミカヅチとの力くらべで敗れ、 信州の諏訪まで追いやられて 帰順したと伝えられます。 八坂刀売命は、 建御名方神の妃神。 大阪市内の神社で唯一の 獅子舞が伝えられている神社、 獅子を奉納したのは 豊臣秀吉 。 1590年(天正8)に 小田原城の攻略が成功裡 となり、 北条早雲以来の関東の雄であった、 北条家を放逐したことで、 ついに天下統一にこぎつけた。 かなてから 大坂城守護の武神 とし、 崇敬していた諏訪神社に戦勝報告、 雌雄一対の獅子を奉納したという。 雌(白雲号)と雄(白豊号)一対 は、 1885年(明治18)の 淀川大洪水 で 雄獅子は流失し、 雌獅子のみが伝わっています。 雌の白雲号 だけで獅子舞が 続けられたものの、 昭和の戦後に入り途絶えたとか。 確たる理由はわからないが、 高度経済成長期に地元の祭りが 衰退したのだろうと思われます。 1968年になって 諏訪神社獅子地車保存会 の手で、 壮烈で雄大な舞と囃子が 伝え継がれるようになりました。 保存会の相談役 寺内康治さん、 右が受け継がれてきた"白雲号"、 左は奉納獅子舞に使われる レプリカ獅子 の「白雲号」。 全身が長い体毛に覆われている " 総毛の毛獅子 "で、 全身を覆う体毛には、 馬の尻尾の毛だけが使われています。 市内で唯一伝わる獅子舞、 総毛の毛獅子 となると 府下では他に例がないそうです。 2003年年度に 大阪市の 無形民俗文化財に指定 、 2023年に諏訪神社が 都市景観資源 に登録されています。 標石に" 神光照天地 皇威輝八紘 " こちらは1869年(明治2) 戊辰戦 争、 官軍の軍艦が使ったとされる 大砲と砲弾なのだそうです。 日露戦争...

ハナテンのルーツへ 阿遅速雄神社

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"放り出す"で放出 = ハナテン 。 大阪人の虎次郎は、 地元なので慣れ親しんだ地名だが、 大阪難読地名でもレベル高。 "学研都市線" と "おおさか東線" の 乗り換え駅として待ち合わせの 列車が往来しています。 駅スタンプのデザインは、 阿遅速雄(あぢはやね)神社 。 鴨の阿鋤遅高日子根神 が、 国造神として祀られた、 鴨(葛城)からは、 葛城川、曽我川、 大和川を下って石川と合流、 長瀬川(古大和川)を 下って北上し河内湖へ。 その河口が"放出"あたり とか。 ご祭神は 阿遅鉏高日子根神 、 "あぢすきたかひこね"読む。 そして 草薙御神剣御宮 である 八剣大神 を配し祀る。 阿遅鉏高日子根神は、 大国主命 の長男にあたり、 神武東征で、神武天皇が 熊野から大和へ入られる際、 阿遅鉏高日子根神が 八咫烏 に姿を変えて先導したとか。 阿遅鉏高日子根神は九州時代の名、 大和へ来られて" 迦毛大神 " (かもおおかみ)となったそうです。 昔、 新羅の僧 道行 が、 熱田神宮からご神体の 草薙神剣を盗み出し、 この地から船で 新羅に逃げようとした のだが、 難波の津で大嵐に遭遇し吹き戻され、 この河口で嵐の猛威が一層強まった。 道行は畏れ、神剣を河に 投げ捨て逃げ帰った、 放り出した…でハナテン 。 本殿前の狛犬の台座に、 " 草薙神劔  奉斎千三百年祭記念” とみえます。 投げ捨てられた神剣は、 この地の里人が拾い上げて、 ひとまず阿遅速雄神社に合祀した。 熱田神宮へ返却される ことになったとき、 その神剣に宿る神霊は分霊され 当社に留め祀られ続けたという。 改めて なぜ "ハナテン"  なのか? 『 鶴見区昔ばなし 』の著者、 赤坂敏行 さんは5つもの諸説を 紹介されています。 第1に「 ハナデ説 」。 入江に突出していた ため、 鼻出、端出に。 第2は「 ハナチデ・ハナチデン説 」。 榎並庄から離れていたので、ハナチデ。 「 牧場説 」が第3の説。 宮殿の外にある 馬の飼育場を放出 と呼んだ。 第4が「 樋門説 」。 古代、大和川の氾濫を防ぐため、 当地に樋門を設け、 不要な 水を勢いよく放ち出し た。 そして第5...

東京天満宮めぐり 平河天満宮

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千代田区内にある最古の鳥居 が 建てられている" 平河天満宮 "、 銅鳥居 は1844年(弘化元年)12月に、 麹町周辺の人々の奉納。 石製の柱木に銅板が 巻き付けられていて、 銘文から御鋳物師の 西村和泉藤原政時の作。 "西村和泉"とは、 元禄から明治期まで 神田鍛冶町に居た 鋳物師の一家系 です。 左右の台座に4体ずつ獅子、 内部の石が露出しているのは、 1945年の空襲 機銃掃射によるものとか。 常夜燈は対の1基のみ、 右側は空襲で破損。 火袋の左面に三日月、 右に日輪の形が施されており、 中台には梅鉢の文様が付きます。 安山岩で作られていますが、 火袋には花崗岩が、 基礎にも新しい石材が使用、 ともに後世に補われたものとか。 銘文によれば、 嘉永5年(1852)閏2月、 菅原道真公の950遠忌にあたり、 雲龍堂と龍海堂の門弟らが奉納 、 雲龍堂は当時の麹町八丁目に 文政年間に開業した寺子屋、 龍海堂は松田町に 1804年(文化元年) 開業の寺子屋、 松田町は現在の鍛冶町二丁目。 寺子屋の天神社に対する 信仰の深さ を物語っています。 石牛はかなり劣化が激しい、 1852年(嘉永5年)に、 浄瑠璃 常磐津節 の 岸沢右和佐 (うわさ)の 麹町の門弟らによって 奉納されたものです。 奥に鎮座されているのは布袋様、 埼玉県坂戸市の "城西大学寄贈" 。 十返舎一九 の書作にある "東都七天神" に列せられるが、 七福神のゆかりは定かでない?? 本殿近くの撫牛は少し新しいのか… 狛犬は1801年(享和元)の奉納、 1850年(嘉永3年)の火災で 角や足が失われましたが、 菅公950年遠忌にあわせ、 補修再設置されたものです。 明治30年に出された 『新撰東京名所図会』第18篇 に、 銘文が収録されていて、 「先代の狛犬がこわれてしまい、  あらたに紫宸殿の障屏画を  もとに狛犬がつくられ、  これが嘉永三年(1850)の火災で  角や足を失い、  同5年に補修して再設置した」と… 京都御所 紫宸殿 《賢聖障子 獅子・狛犬・負文》 出立ちは似ているようにも 思えますが… 境内社の 平河稲荷神社 注連飾りのつく" 力石 "、 中央に "天龍石" 、 右...