投稿

横浜富岡をあるく 花翁山 慶珊寺と長昌寺

イメージ
富岡八幡宮 の別当寺であった 真言宗御室派 花翁山 慶珊 寺、 かおうざん けいさんじ と読みます。 伝栄上人 が開山、 不動院宝龍寺と号した 古寺を受け継ぐかたちで、 豊嶋信満こと明重 が 両親の菩提を弔うために建立。 山号の花翁は父の法名から、 寺号の慶珊は母の法名 に因む。 裏山の墓地に 豊嶋明重父子供養塔 と 伝栄上人 の宝篋印塔があるとか、 墓地なので案内図のみにて。 豊嶋明重は寛永5年(1628) 、江戸城中で老中の井上正就を 刺殺して切腹、嫡男吉継も切腹を 命じられ豊嶋家は断絶しています。 柴田練三郎 の『 孤剣は折れず 』の モデルだと言われています。 その後 東映時代劇として 1960年12月公開されます。 鶴田浩二と美空ひばり と 夢のコンビ作品とか。 十一面観音半跏座像 は、 正慶元年(1332)に鎌倉期の仏師、 院誉 (いんよ)によるもの。 高さ約40センチの小さな像で、 宋代の"遊戯坐像" なのです。 右足を前に出し、 左足を下ろして座る姿勢は、 半跏思惟像とは異なった、 くつろいだ印象を与えます。 顔立ちは鎌倉彫刻らしさ みられ、 精緻な彫刻が施されているそうです。 門前の右隣にある" 孫文上陸記念碑 "、 中国革命の先駆者 孫文 が ひそかに 上陸したのが 富岡だっ たそうです。 副碑の由緒にはこうあります。 「近代中国建設の父とにして、  三民主義、大アジア主義の  提唱者である孫文先生は、  第二革命に際し袁世凱に  追われて中国を脱出、台湾経由、  日本に亡命を企図され、  1913年(大正2)8月17日、  横浜沖より小舟にて   当地富岡海岸に上陸  東京に向かわれた事実 は  当時の神奈川県知事大島久満より  外務大臣牧野伸顕に宛てた  報告文により明白となりました。   孫文先生の富岡亡命上陸成功 により  当時の日本当局者並びに  日本人有志の援護があり、  それが要因となって近代中国が  生まれたことを思えば、  富岡上陸の意義は誠に大きいと  言わなければなりません。」 孫文の日本での活動は主として 中区の中華街に潜伏し て、 日本人の協力も得たのだが、 中華街に孫文の史跡碑がない のは、 中華民国と中国共産党との 政権対立したまま今日に 及んでいるという事情によるもの。 ちな...

横浜富岡をあるく 富岡八幡宮

イメージ
横浜遠征の雨模様… ナイターの心配をしつつ 京急富岡駅 周辺の散策記 。 ホテル最寄りの関内駅でブルーライン、 上大岡駅で京急に乗り換え、 " 福参り ”の看板がありました。 京急富岡駅 は1930年4月に 湘南電気鉄道 が開業されたときは、 駅は設置されませんでしたが、 同年7月には夏季のみの 海水浴客専用仮駅の" 湘南富岡駅 "が 前身なのだそうです。 当時は駅舎の海側に海岸線を 見ることができたそうです。 沖の方まで埋め立てられて、 高層住宅が建ち、 人口も急増している地域です。 富岡八幡宮 の始祖は、 建久2年(1191)に 源頼朝 が 摂津の 西宮の恵比寿様 を勧請し、 お祀りしたのが始まり。 鎌倉幕府から鬼門の方角に 当り、 社殿も鬼門を向いて祭られています。 えびす様 は漁業の神様とされ、 海の守り神として崇敬されてきました。 絵馬には" 波除八幡宮 ”とあるものも… 1311年(応長元年)に発生した " 応長の大津波 "で隣村の長浜千軒は 海にのまれ全滅してしまいましたが、 富岡は八幡宮の山に守られて 無事だったと伝えられています。 厄除けのいろんなお守りがありました。 現在の本殿は天正14年(1586年)の建築、 2002年の造営により覆殿を復興され、 柿葺の屋根・丹塗の社殿など、 桃山時代の姿 に戻されました。 漆塗りの本殿の扉は、 鶴岡八幡宮 の造営に際し、 寛永3年(1626年)に富岡八幡宮へ 授けられたものです。 御祭神は八幡大神、応神天皇、 神功皇后、比売大神、 そして明治6年(1873年)に 伊勢皇大神宮 を合併合祀し、 天照皇大神も祀られています。 こちらが" 古殿地 "で2002年の 遷座前に本殿があった場所には、 真榊が植えられています。 社宝の 《絹本著色八幡神像》 白地に瑞雲文の来帯を着け、 右手に矢、左手に弓を持ち、 太刀を身に付けた若々しい神像。 裏箔 と呼ばれる画絹の裏から 装飾する技法が用いられていて、 桃山期の武将像 に似通っている。 京急富岡駅より参ったので、 こちらが正面鳥居となります。 鳥居の傍らに立つ "料亭 金波楼"の案内杭。 かつてはこのあたりに海岸線があって、 明治17年(1884)に地元の人々が出資、 ...