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OSAKA黒ユニ

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OSAKAと綴られた タイガースの黒ユニ… 今年の黒さとネームの輝き は、 2025モデルとは一線を画す。 「TIGERS B-LUCK DYNAMITE SERIES」 略してTBDSと呼ぶ。 戦後すぐの「大阪タイガース」時代、 ダイナマイト打線 と呼ばれた。 1948年から49年の2年間着用の 黒のユニフォーム。 1番金田正泰、2番呉昌征の巧打俊足、 3番別当薫、4番藤村富美男の豪打、 5番土井垣武、6番本堂保次、 7番8番は後藤次男、安居玉、 あるいは長谷川善三とか。 「グレートセントラル」 での復活は、 長野で行われた横浜戦 2010年8月17日、 8月18日、19日は横浜スタジアムで。 3連勝でなんと 33点で3タテ している。 2011年の長野でのゲームは、 真弓監督の善光寺参拝のご加護? 「(シーズンの)最後まで着るか?」との ジョークも飛び出した。 8月24日からの広島との京セラ3連戦、 1勝2敗だったが8/25は 22-8で大勝 だった。 2011年交流戦では甲子園でお目見え、 ストッキングは数種類を使い分け、 2010はグレーと紺の縞を復刻したが、 2011は黄色と紺の縞の復刻となった。 ネットに残る 藤浪晋太郎 の黒ユニ姿、 ユニお披露目の一枚だが… 靴が蛍光色なのが笑える。 初代のユニは遠めからは 上下黒ずくめに見える 斬新な色調に見えたが… 「滑り込むとよく破れたから。  ばんそうこうを張って繕った」 と振り返って話が残る。 サンテレビ解説でも有名、 監督経験者の 後藤次男 さん談。 ユニフォームが登場した理由は、 戦後の物資不足だったとか。 伝統の縦縞のユニフォームに したかったのだが、 縞の生地が手に入らず、 やむなく紺色の生地で 仕立てるコト になった… ブラックでなく濃紺だっただ。 替え着はなく、 試合後は自ら洗濯して、 綻びを直して大事に使われた。 金本監督就任2年目、 2017年バージョンとしてリメイク。 ただこのときもOSAKAではなかった。 ダイナマイト打線の帽子マークは 大阪の頭文字の「O」だったが、 復活でもTHのままだった。 話は横道にそれますが、 「♪六甲おろし」 の "オゥオゥオーオー 阪神タイガース" 、 創立当初は大阪タイガースでした。 [大阪につながるからこそ  オウオウなのである] とい...

日本三景 宮島にふたたび

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日本三景のひとつ"宮島" 、 広島遠征はブログで遡ると なんと 12年ぶり でした。 日本三景は松島、天橋立、 そして宮島です。 江戸時代初期に 林春斎 が記した 『日本国事跡考』 という書物に、 「松島、此島之外有小島若干、  殆如盆池月波之景、  境致之佳、  與丹後天橋立、  安藝嚴島爲三處奇觀」 とあります。 実は 7月21日は"日本三景の日" 、 『日本国事跡考』を著した 林春斎の生誕日 1618年7月21日がその所以です。 江戸前期の幕府の儒官で、 林羅山の三男 である 林春斎の記述を現代訳すると 「松島、この島の外に小島若干あり、  ほとんど盆池月波の景の如し、  境致の佳なる、  丹後天橋立・  安芸厳島と三処の奇観となす」。 ちなみに安藝国の記述は、 厳島神社の回廊のことが 綴られています。 三つを選ぶので代表的なのが、 " 徳川御三家 "ですが、 もとは太政大臣に昇進できる 家を"三家"と呼んでいて、 閑院家、花山院家、中院家を指しました。 昭和になると大物芸能人3人を 「御三家」と称していましたね。 3つのものを総称するのが好きなのは、 日本に限らないことですが、 三大発明、三大珍味、三大料理などなど、 世界の三大美女 は日本では、 クレオパトラ・小野小町・楊貴妃…、 ただ国によって違ってくるのだとか。 芸能界に 新御三家 があるように、 日本三景にも日本新三景 。 1916年(大正5年)に 実業之日本社 主催で選ばれ、 全国投票の結果で 大沼(北海道)、三保の松原(静岡)、 耶馬渓(大分) の3つが選ばれたとか。 日本新三景だと知っている人は、 少ないかと思います。 " 令和の日本三景 "といものも… 鋸山照前展望台(千葉県・鋸南町) 若狭和田海水浴場(福井県・高浜町) 乳岩・乳岩峡(愛知県・奥三河)。 なぜ三なのかは諸説あるようですが 「 人間は3つのものを並べると、  そこにある種の安定性や  まとまり感を抱く傾向がある 」とか。 お神籤を… 神代七世兆(平) ? 「これは男女ありていまだ  交わらざる兆にて  何事も時いたらず、  気永く時節を  待ちてなさされば、  よろしからず。物事静かに  心がくるときはよしとしるべし。」 とのこ...

鎌倉古道 十二所神社に詣でる 兎の彫刻のなぞとき

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朝夷奈切通 を通じて鎌倉へ バス通りを跨ぐと" 十二所神社 "。 祭神は 天神七代 と 地神五代 で 合わせで12ということ。 熊野大社では、 夫須美大神(伊邪那美大神)、 速玉大神(伊邪那岐大神)、 家津御子大神(素盞嗚尊)、 天照大神、忍穂耳命、 瓊々杵尊命、彦穗々出見尊、 鵜葺屋葺不合命、軻遇突智命、 埴山姫命、彌都波能命、 稚産霊命の十二柱を起っています。 熊野神 がイザナキ・イザナミ・スサノオ、 天照大神からの天津神、 イザナミの最後の子神です。 鎌倉の十二所神社では、 イザナキ・イザナミ以前の 神代七代 (かみよななよ)が " 天神7代 "とされ、 天照大神系統で神武天皇 の 直前までを" 地神5代 " としているようです。 明治以前は" 熊野十二所権現社 "と 呼ばれていたそうです。 " 権現" とは 本地垂迹思想 により、 権は仮のという意味を表します。 すなわち" 仏が仮の姿で現れた "のが、 神道の神様であるという考え方です。 熊野神社の十二の権現は、 熊野比丘尼 によって中世(12~16世紀)に、 広められたもので、 そのうちのひとつと考えられます。 はっきりした創建は不明ながら、 かつては同じ十二所にある 光触寺 の境内社であったもので、 1838年に現在地に遷座しました。 寿永元年(1182)、 北条政子 の出産で奉幣使が派遣、 二代将軍 源頼家 の誕生の折、 神馬が奉納されたとも… 社伝によれば弘安元年(1278)の創建、 『相模風土記』稿に 「按ずるに光觸寺境内に  熊野十二所の社あり、  是を村の鎮守とす」。 『十二所権現社再建記』には、 天保8年に明王院別所恵法が 社頭再営を志し、 天保9年(1838)現在地に 再建されたとされています。 社殿の柱には 兎の彫刻 。 熊野権現なら 八咫烏 なのでは?? なぜ兎なのか は調べても よくわかりませんでした。 古来中国から伝わってきた思想として、 太陽には烏が住み、 月には兎が住む というものがありますが、 兎を単独で押し出したりしないのです。 鎌倉の東端にあるため、 東=卯=兎 が掲げられたのでは という説がありました。 本殿裏手" やぐら "に祠。...

鎌倉古道 朝夷奈切通を征く 

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鎌倉七口 のうち最も高く 嶮岨(けんそ)といわれる " 朝夷奈切通 "へいざ!! 行ったのは ハマスタ雨天中止の翌朝 、 金沢八景駅から京急バスに乗って、 鎌倉駅へのバスルートなので、 便数は結構ありました。 バス車窓から" 鼻欠地蔵 "、 金沢区に残る二つの磨崖仏の一つ。 相州(鎌倉)と武州(金沢)の境、 双方の土地争いの仲裁役として 建立されたもの だそうですが、 争いが絶えないので お地蔵さんが見せしめに、 自ら鼻を欠いてしまった と 言い伝えられています。 『江戸名所図会』 に、 優しいお顔のお地蔵さんの 絵が残っています。 旅人が二人で、 お地蔵さんに向かって話を している様子が描かれています。 絵図には 鼻缺(はなかけ)地蔵 、 昭和19年(1944)に相武隧道が開通、 大船との交通が利便となり、 地形も大きく変わりました。 昔の人たちは、 「 地蔵の前 」と呼んでいたとか。 バス停を降りると案内板 バス通りから200m 大きなスダジイ 朝夷奈切通への入口には、 いくつかの石地蔵像 上に横たわっているのは、 横浜横須賀道路 です。 凝灰質の地層がくっきりと、 地質学的には朝夷奈切通では、 三浦層群池子層と上総層群浦郷層、 水の流れでできた堆積構造 。 奥入ると切り立った…まさに"切通" 仁治元年(1240)に鎌倉と 現在の横浜市金沢区にあたら " 六浦津 "との重要交通路として、 山稜部を開削した古道。 『 吾妻鏡 』には仁治2年(1241)に、 幕府執権であった 北条泰時 の指揮のもと、 六浦道の工事が行われた記事があり、 自分の乗馬に土石を運ばせて 工事を急がせたともいいます。 六浦は塩の産地だったそうで、 安房・上総・下総等の 関東の地をはじめ、 唐からの物資集散の港でした。 岩肌からも染み出す雨水 このあたりで引き返そうかとも… 滑りにくい靴ではありましたが、 後悔の念… 果たしてハマスタに戻れるのか? 熊野神社は 鎌倉の艮(鬼門) の 守りとして祀られたと 伝えられています。 鎌倉の秘境とも… ふだんでも人影もほぼないとか。 熊野三柱大神 速玉男命、 伊邪那岐命、伊邪那美命の 熊野三社 を勧請したことがはじまり。 ただ… 石段もあるという熊野神社への 参拝は叶いませ...