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太子霊場めぐりvol.26 龍田神社

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聖徳太子に 法隆寺建立地 を 指示したとつたわるのが、 " 古社 龍田大明神 "だとか。 589(崇峻2)、16六歳の太子が 法隆寺建立の地 を 竜田川に沿って探していた、 すると白髪の老人が現れ、 「ここから東に 斑鳩(まだらばと )が  群棲している郷がある。  仏法が末永く興隆する地であり、  そこに伽藍を建てなさい。」 と告げたのだそうです。 奈良県生駒郡斑鳩町の 龍田神社 。 崇神天皇の時代創建された古社、 法隆寺創建の鎮守として遷座、 元々の社名は " 龍田比古龍田比女神社 "、 長年、 龍田神社の社務は 法隆寺が管理されてきた ようです。 龍田比古神と龍田比女神の 二神を祀っていたとされますが、 明治期の神仏分離で法隆寺から離れ、 三郷町立野の 龍田大社 の摂社に 龍田大明神が祀られています。 手水鉢には 鶏の口 から注がれます。 神功皇后の三韓征伐 のこと。 暗がり峠で朝一番に鳴く 鶏声を合図に出発していたのが、 鶏が寝坊して出兵が遅れた という。 怒った皇后は 鶏を生駒川に捨てた …、 下流の龍田川のほとりの 龍田大明神が拾って飼った と。 そのことで 生駒地方では 鶏を食べても飼わなくなり 、 龍田では鶏を飼っても 食べなくなった のだそうです。 龍田神社の裏山にある" 御坊山 "は、 聖徳太子の一族の墓 とも。 毎年元旦には 金の鳥 が鳴く という言い伝えも残っています。 "丁未の乱" を経た 崇峻天皇が即位した2年目、 正史とされる 『日本書紀』は、 法隆寺の建立については 記載されていない のです。 『聖徳太子伝私記』 による 龍田神社の創建伝承は、 法隆寺の建立時期を知る 貴重な情報です。 "丁未の乱"は 用明天皇 が崩御、 蘇我馬子が物部守屋が 討たれ戦い です。 14歳の聖徳太子は、 馬子の軍勢に参加していました 。 いずれにしても、 神話的な伝承なのです。 龍田神社近くに立つ "鹿塚" 、 太子伝説によると、 太子がこのあたりを通られた時、 家来の飼犬と鹿とが喧嘩をし、 犬が鹿の脛にかみつき、 倒れた鹿の傷を手当てし、 逃がしてあげたそうです。 数日後 再び犬が鹿を追い、 鹿はひとたまりもなく かみ殺されたそうで...

菅公腰掛石と"させんどう"

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諏訪神社にある末社" 腰掛天満宮" 、 時に901年(延喜元)のこと、 菅原道真 が大宰府配流の道中、 藤井寺の 道明寺の伯母 へ挨拶する前に、 立ち寄ったとされる。 "腰掛石" は諏訪神社前の道沿いに あったようですが、 腰掛天満宮 の前に移設、 1976年3月の御本殿造営の折、 旧本殿も現在の場所に。 "腰掛石" の姿形は、 菅公の棺を曳いた "牛"の形になっている とも。 歴史著名人が腰掛けたという 伝承は点在するが、 菅原道真に関する石は、 Google検索すると 全国25か所 存在するそうで … 源義経 は8か所程度なので、 ダントツの菅公腰掛石 。 道真はやたらと 手ごろな石に腰掛けた!? 道真が大宰府に向かう道すがら 立ち寄って腰掛けた、 とされる石が祀られている。 仁和寺 には、 宇多天皇に別れを告げるため、 帰りを待つ間に腰掛けた石。 乳母の多治比文子 に 立ち寄った" 文子天満宮 "、 その次がここ 腰掛天満宮 。 堺市堺区西湊町にある " 船待神社 " では船を待つ間。 太宰府へ流される途中、 明石の駅家で休息をとった ”休(やすみ)天神社” 、 尾道の "御袖天満宮" 、 松山市にある "辰岡天満宮" は、 腰掛天神 とも呼ばれるとか。 左遷された際、後難を恐れて 鹿児島の 出水市 や 薩摩川内市 には、 腰掛石伝説が遺されています。 諏訪神社 には 地車 があり、 夏祭本宮は 7月の第3日曜、 秋祭の本宮は10月の第3日曜、 どちらにせよ来年までお預け。 2019年5月に新調された地車。 姿見の破風懸魚には、 "諏訪神社 道真腰掛岩に座る" 。 村人たちは道真に同情し、 地名を "左遷道" を改め、 のちに "左専道" とされました。 "左遷"は聞こえが悪い ので、 改めたのでしょうね。 小屋根の懸魚には " 諏訪獅子奉納之舞 "。 " 木村重成 左専道之合戦 " 1614年(慶長19)の 大坂冬の陣 、 初陣を飾った豊臣方の若武将 木村重成 が 後藤又兵衛 らとと...

江戸東京の水道を探る〜近代水道誕生

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文明開化のかけ声… 新橋・横浜間の鉄道開通 1872年、 銀座に煉瓦街誕生 1873 年、 ガス灯が輝く1874年など、 東京の風景は急激に変化。 ただその一方で、 水道は依然として 江戸期の神田・玉川上水のまま でした。 浄水処理がほどこされていない 河川水そのものが石樋・木樋で 上水井戸に配水されたままでした。 玉川上水路を利用して千駄ヶ谷へ 浄水場の建設計画がありましたが、 凹凸高低があって構造上必要な、 沈殿池やろ過池には危険であると、 そう唱えたのは、 当時青年技師だった 中島鋭治 という人。 代田橋と淀橋間を直線で結ぶ 新しい導水路の建設により、 沈殿池の水面が当初予定地の 水面よりも約5mも高くなり、 ポンプ動力等経費の節減を可能に。 約5mの高低差を無駄にせずに、 浄水場(千駄ヶ谷を淀橋に変更)と 給水所(小石川近傍を      本郷・芝に変更)の位置変更した。 水道施設に消火設備を設置、 1887年代初めの近代水道設計に、 水道配管の付属設備として 盛り込まれました。 黄色の本体に赤で "消火栓" 、 青で東京都の亀甲マーク、 欧米にならった彩色で"黄色"、 近代水道とこれまでの 上水との大きな違いは "浄水"、"加圧送水"、"鉄管" 、 安全な水が必要な場所に 安定して配水することが 可能になったのです。 1898年12月、 東京市に近代水道が誕生。 自宅まで水道をひけない 人たちのために、  町のあちこちに、 カギで管理する 共用栓 が設置。 淀橋浄水場から給水を開始、 1899年末までにほぼ市内全域へ 給水が実施されたのですが、 東京市は現在の23区のごく一部。 1日平均1人あたり約110L の 使用量だったそうです。 大正時代末期は一人あたり180L 、 ただ関東大震災の水道施設への 被害も甚大でした… 自然災害や戦争による 大きな被害を受けましたが、 これらの体験は、 より強固な水の道へと繋がりました。 1921年の地震では、 新水路に被害があり、 汚染の可能性があったとか。 "塩素消毒" が初めて 行われるようになったのです。 関東大震災 では、 専用栓は約 64%が焼失、 漏水防止に3年を要しました。 ポンプ動力が蒸...