投稿

上総国一之宮をたずねる〜玉前神社

イメージ
5月交流戦の ZOZOマリスタ遠征 、 そのFacebookに40年来の友人から… 「外房線電車一本。  玉前神社、行っておいで。  縁結びに効くらしいし。   歳いきすぎて"効くか知らんけど" 」… デーゲームなので行けるのか? せっかくの FIELD WING SEAT だし、 早めに球場入りしたい ⚾ ネズミーランドとZOZOマリンと間 、 市川塩浜 駅前のホテルセレクトを 悔やみつつルート検索すると、 始発で行けば九十九里浜も? 期待膨らみつつ 京葉線、外房線 でイザ! 千葉は何度か訪れてるけど、 外房線に乗ったのは初めて! 始発だからなのか?暑いからか? ホームにほぼ人影なし。 80分くらいで 上総一ノ宮駅 へ! 玉前神社 は海から離れたとこらしい。 " 旧 国幣中社玉前神社 "とあります。 国司から幣帛を奉った官幣社 に 次ぐ社格で二番目の等級が国幣中社。 一宮町の名称の由来となった 上総国にまつられる古社で、 平安期の延喜式には名神大社、 上総国一之宮  (かずさのくにいちのみや)。 玉前神社 の社名の由縁は、 ご祭神が 玉依姫命 という女神。 姉の海神・ 豊玉姫命夫神 は 日子火火出見命 との子、 鵜茅葺不合命 を出産しますが、 「赤玉は 緒さえひかれど 白玉の  君が装いし 貴くありけり」 と祝いの歌とともに 妹の玉依姫命子にを託して 海へ去っていったと… 鵜茅葺不合命の "旭日の働き" である 清新・発祥・開運・再生は、 玉依姫命によって守護されるとか、 北条政子の安産祈願 の場であったとか。 黒塗り権現造り と珍しい社殿は、 棟札によると1687年の建立。 権現造とは本殿と拝殿を 幣殿で接続した複合社殿のこと。 本殿は側面から背面にかけ、 刎勾欄 (はねこうらん)付きの 切目縁が廻らされています。 正面の蟇股 には「 高砂翁媼 」、 翁媼 (おきなおうな)と読みます。 葡萄に栗鼠 、 梅に鶯 波に海馬 牡丹に唐獅子 そして 竹に虎 虎次郎も波に乗れますように と! " 波乗守 "をいただきました。 九十九里浜に近いことで、 サーファーの安全守 に留まらず、 開運波に乗れるとか… ご祭神が波に乗って九十九里浜に 上陸した伝説に由来するもの。 境内には九十九里浜に因む

太閤秀吉を辿るvol.14 醍醐の花見

イメージ
"醍醐の花見"に行ってきました! 秀吉がこの地で花見をしたのは、 1598年(慶長3)3月15日 のこと。 醍醐寺三宝院門跡 義演准后 は、 日記に次のように記しています。 「今日太閤御所渡御せらる、  女中各御成あり、  終日花御覧遊覧す、  路次茶や以下の結構、  筆舌に尽くし難し、  一事の障碍なく、  無為に還御せらる、」 『義演准后日記』 にこう記した 義演は 「一寺の大慶」「一身の満足」 であったと述べています。 実は秀吉は"醍醐の花見"に先立つ 前年3月ににわかに醍醐寺を訪れ、 さらに翌年2月に花見の下見… 「桜ノ馬場」から「やり山」 に続く 約637メートルの左右に… その数「七百本」 とか。 総門から仁王門に続く道 に 見事に咲き誇る桜… この光景こそ秀吉が見たものだと 違いないのだそうです。 秀吉は1597年(慶長2)に 五重塔 の修理に着手して以降、 金堂、金剛輪院などの伽藍を再興 。 《義演像》  17世紀 醍醐寺 応仁・文明の乱 で荒廃していた 醍醐寺を再興した大施主、 義演は三宝院門跡 座主 として、 秀吉の後援をうけ、 伽藍の復興を行った 中興の祖 とされました。 秀吉の没後も秀頼により継承 、 山上山下の多くの堂宇が 整備されることになったのです。 そもそも秀吉の醍醐寺や 義演に対するコダワリとも 言える行動にはナゼ? 大きな理由の一つが "秀吉の関白就任" とか… 従一位関白に叙されたのは、 1585年(天正13)7月11日、 この前日に 義演の実兄 である 二条昭実 は従一位関白に… そして 秀吉の関白就任 と 入れ替わりに辞任しています 義演は准三后に宣下 されたのが、 秀吉関白叙位の翌日のこと。 公卿の議で決定される宣下が、 秀吉の"申沙汰" で にわかに 。 実兄の関白辞任の代償として、 秀吉の強い働きかけにより 義演が准三后に補任… 《幔幕図屏風》  生駒等寿 江戸時代 醍醐寺 背景には 朝鮮出兵 も関わりがあり、 護持祈祷として大阿闍梨 義演 が 東寺講堂 で仁王経法を勤修。 また 高野山大塔 落慶供養も 、 義演 が導師で 大壇那は秀吉 でした。 醍醐の花見が行われた5ヶ月後、 秀吉は病に倒れ、義演は 北政所 より 「御祈祷料黄金五十両」を