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東京建築をみる〜旧李王家東京邸(赤坂プリンスクラシックハウス)

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どこから見ても絵になる… 赤坂プリンスクラシックハウス は、 " 李王家東京邸 "だったそうです。 大倉集古館 からホテルにもどるとき、 Googleマップで存在を知った偶然。 1990年代のバブル期には 高層ビル建設に拍車がかかった、 紀尾井町は東京の ビジネスの中心地としての 地位を確立したそうですが… " 紀尾井町 "という地名ですが、 紀州徳川家 、 尾張徳川家 、 そして 彦根井伊家 の 1文字ずつ取って"紀尾井町"、 命名されたのは1872年のことで、 《江戸切絵図》 の左下部分です。 紀州徳川家上屋敷の敷地の一部に 建てられたのが" 北白川宮邸 "、 3階建ての塔屋の洋館は、 1894年(明治27)年の" 明治東京地震 "で 被災しその後撤去されたそうです。 北白川宮邸跡地に 1926年(大正15)に建設開始、 1930年(昭和5)に完成したがのが、 李王邸の洋館 なのです。 李氏朝鮮 の歴代国王を出した 家系の"李王家"、 日韓併合 によって日本の皇族に 準ずる待遇がなされたのです。 施主の李垠は、 初代大韓帝国皇帝・高宗の7男、 1907年に異母兄の李坧が皇帝即位、 皇太子に叙せられ、 東京に留学ののち 学習院に入学 。 1910年 李王の王世子 となります。 1926年4月に" 昌徳宮李王垠 ”となり、 陸軍中将に叙せられますが… 終戦後は度重なる苦難に遭遇、 1963年に韓国に移り住み、 1970年に永眠されました。 正門部分は良く保存されています。 壁部分は スパニッシュ風 に 渦巻き状の模様 が付けられています。 1階と2階部分の間の 胴蛇腹などの装飾はなく、 窓が代わり多く設けられています。 車寄せ部分を見ると アーチ状の出入り口、 15-17世紀にイギリスで流行の チューダー様式 です。 急こう配の屋根に 明り取りの ドーマー窓 、 中央部分に塔屋などもあり、 中世フランス建築風 の 意匠ともいえます。 正面部分が非対称的なのに対し、 南側は3連アーチ部分を挟んで、 中心部分は左右対称。 アーチ上部はハツリのある 木の梁と持ち送り による " 張り出し床 "の造り。 左サイドには塔屋 右側...

カトリック大和郡山教会"浦上四番崩れ"のこと

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大和郡山駅から郡山城に向かう 道すがら… カトリック大和郡山教会 に立つ ” 浦上四番崩れ流配者記念碑 ” なるものがありました。 長崎の 大浦天主堂 の正式名称は 「 日本二十六聖殉教者天主堂 」、 1864年(元治元)の創設で、 幕末の外国人向け教会として、 設立されたものです。 こちら長崎の 浦上天主堂 、 原爆の悲劇を乗り越えて再建された、 ロマネスク様式の大聖堂です。 幕府は慶長元年(1596)以来 300年間 邪宗門信奉として、 間断なく迫害を敢行しました。 幕府崩壊後も維新政府は、 七代に亘って潜伏を続けたという、 長崎県浦上村民3416名を捕縛 。 1869年(明治2)に家族を 分散総流罪に処したのです。 事件を称して" 浦上四番崩れ " と呼んでいるそうです。 長崎浦上のキリスト教信者 3,300余名の人たちは、 日本の各地に流配されました。 そしてその内、 86名の人たちが、 遠き大和郡山へと強制送致、 苦難な歳月を重ねたという。 切支丹墓碑 には殉教者6名の 名前が刻み込まれています。 1926年7月建立とありますが、 誰が建立されたかは定かでなく。 もとは雲幻寺(良玄禅寺)の 境内にあったものが、 1969年11月3日移されました。 名古屋以西の 21 藩に 分散流配されたそうです。 信仰一途に生命を棄てて 殉教死した人も 612名に及んだとの記録があります。 郡山藩に預けられたのは、 戸主10名と14家族婦女子76名、 茶町の雲幻禅寺に送られました。 9名の殉教死者を出しながら、 解放されたのは1873年(明治6)、 故郷浦上に帰ったそうです。 雲幻禅寺では風呂あり火鉢あり、 旅館からの炊き出しもあったとか。 その後、綿町、魚町、柳町2丁目、 同3丁目の4か所に分囚されますが、 「 流配信徒の処遇は寛大にすべきだ 」 との郡山藩主 柳澤保申 の意見具申、 ただ十字架の没収や裸にしての捜査、 威嚇は厳しいものであったようです。 こちらは2022年11月に 大和郡山市綿町にある 築約100年の古民家で発見された 「マリア観音」 と呼ばれるもの。 高さ約13センチの石像、 天井近くの 隠し部屋のような空間で、 火鉢のような器の中に 置かれていたという。 古民家の隣には 浦上キリシタンたちがいた 綿町収容所 があったそうです。

大倉集古館をたずねてvol.5 極楽浄土そして…

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《阿弥陀如来来迎図》  鎌倉~南北朝時代 14世紀  大倉集古館蔵 仏が住む世界" 浄土 "、 阿弥陀来迎図とは仏菩薩が 迎えに来る様を描いた仏画、 極楽浄土へと往生を願う人々が 臨終の際に本尊として掛ける。 《山越阿弥陀図》  冷泉為恭(1823~64)筆  江戸時代・文久3年(1863)  大倉集古館蔵 重要美術品 鎌倉時代の悉皆金色の 阿弥陀とは異なって、 彩度の高く" やまと絵" の 山水景の中に影向するさま を描かれています。 復古やまと絵の絵師である 冷泉為恭 は『 伴大納言絵巻 』 の 閲覧許可を得るため、 小浜藩主・酒井忠義 に 近づいたことが、 佐幕派とみなされ 尊王攘夷派 から 命を狙われたとか。 《探幽縮図 地獄十王図巻》  狩野探幽(1602~74)筆  江戸時代・17世紀  大倉集古館蔵 重要美術品 幕府御用絵師の 狩野探幽 が、 諸大名たちから持ち込まれた 絵画を丹念に縮小模写したもの。 十王 とは道教や仏教で 地獄において亡者の審判を行う 10尊を指していて、 閻魔王は浄玻璃の鏡を使い、 生前の善悪を見抜き、 "六道" の行き先の審判を 担当したとされています。 六道とは、天上・人間・修羅・ 畜生・餓鬼・地獄をいいます。 《空也上人絵伝》  室町時代、16世紀  大倉集古館蔵 浄土教、念仏信仰の 先駆 空也 の生涯が描いたもの。 橋を架け井戸を掘るなど " 市聖 "とも呼ばれました。 上部から、鞍馬山で修行、 毘沙門天の導きで剃髪し、 松尾明神に鉦鼓を与えられる。 鹿角杖を持ち、 鉦鼓をたたきながら 念仏を唱えると、 口から阿弥陀仏の小仏が 飛び出たのだと伝わります。 《春日鹿曼荼羅図》  室町時代・15世紀  大倉集古館蔵 平安時代後期になると、 日本の神々は仏教の仏菩薩が 衆生を救済するために 姿を変えて現れたとする "本地垂迹説" が生まれました。 本図は奈良 春日大社の 神体山である御蓋山と 春日奥山の山容を背景に、 春日神の使いである 神鹿 が雲に乗って飛来。 神鹿の鞍上には榊を戴き、 上に金色の円相を表しています。 《僧形八幡神像》  南北朝時代・14世紀  大倉集古館蔵 八幡神が僧侶の姿で 表現された神像、 頭上に描かれた深...

大倉集古館をたずねてvol.4 祈りと救いの美 仏教伝来と釈迦如来

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《聖徳太子勝鬘経講讃図》 鎌倉時代・14世紀 大倉集古館蔵 重要美術品 推古天皇14年(606)7月、 35歳の 厩戸王 が天皇に命じられ、 『勝鬘経』を講じたという 故事が描かれています。 日本へは仏教伝来は、 538 年(あるいは 552 年)に 百済の聖明王が伝えたのが 最初といわれています。 《聖徳太子勝鬘経講讃図》では、 朱色の袍に袈裟を 着けた 聖徳太子 が、 机上の経典を前に坐し、 左側に 山背大兄王 、 高麗法師 恵慈 、 百済博士 学呵 、 右側に聴聞する 蘇我馬子 と 小野妹子 が描かれています。 《古経貼交屏風》 6曲1双のうち 奈良~鎌倉時代(8~13世紀) 《百万塔陀羅尼》 宝亀元年(770)と制作年代が判る 世界最古の印刷物でもあります。 《観音菩薩坐像》 中国・金・元時代(13~14世紀) 大倉集古館蔵 頭部正面に 禅定印 を結ぶ 化仏の坐像、宝冠をつける。 ふくよかな顔立ちで 顎に丸みを帯びています。 《仏涅槃図》  鎌倉時代・14世紀  大倉集古館蔵 重要美術品 《観音菩薩坐像》の 後ろにあったが《仏涅槃図》 、 釈迦入滅の日に執行される 涅槃会で盛んに用いられたもの。 《釈迦三尊像》 室町時代・16世紀 木の葉を敷いた岩座上に 坐す 釈迦如来 の 右側に獅子に乗る 文殊菩薩 、 左には白象に乗る 普賢菩薩 、 童子形で描かれています。 《十六羅漢像》 16幅の内 鎌倉時代・14世紀 大倉集古館蔵 重要美術品 釈迦の遺命を受け、 釈迦入滅後もこの世に永く留まり、 仏法を守り伝えて人々を 救済する役割を託された 16人の優れた弟子を、 十六羅漢 と呼んだ。 これらの阿羅漢を各幅に 一人ずつ描いたもの。 着彩法や描法が3系統に 分けられるとび指摘があり、 様式の異なる羅漢図が、 後世に1具に 組み合わされたともされる。