投稿

日本三景 宮島にふたたび

イメージ
日本三景のひとつ"宮島" 、 広島遠征はブログで遡ると なんと 12年ぶり でした。 日本三景は松島、天橋立、 そして宮島です。 江戸時代初期に 林春斎 が記した 『日本国事跡考』 という書物に、 「松島、此島之外有小島若干、  殆如盆池月波之景、  境致之佳、  與丹後天橋立、  安藝嚴島爲三處奇觀」 とあります。 実は 7月21日は"日本三景の日" 、 『日本国事跡考』を著した 林春斎の生誕日 1618年7月21日がその所以です。 江戸前期の幕府の儒官で、 林羅山の三男 である 林春斎の記述を現代訳すると 「松島、この島の外に小島若干あり、  ほとんど盆池月波の景の如し、  境致の佳なる、  丹後天橋立・  安芸厳島と三処の奇観となす」。 ちなみに安藝国の記述は、 厳島神社の回廊のことが 綴られています。 三つを選ぶので代表的なのが、 " 徳川御三家 "ですが、 もとは太政大臣に昇進できる 家を"三家"と呼んでいて、 閑院家、花山院家、中院家を指しました。 昭和になると大物芸能人3人を 「御三家」と称していましたね。 3つのものを総称するのが好きなのは、 日本に限らないことですが、 三大発明、三大珍味、三大料理などなど、 世界の三大美女 は日本では、 クレオパトラ・小野小町・楊貴妃…、 ただ国によって違ってくるのだとか。 芸能界に 新御三家 があるように、 日本三景にも日本新三景 。 1916年(大正5年)に 実業之日本社 主催で選ばれ、 全国投票の結果で 大沼(北海道)、三保の松原(静岡)、 耶馬渓(大分) の3つが選ばれたとか。 日本新三景だと知っている人は、 少ないかと思います。 " 令和の日本三景 "といものも… 鋸山照前展望台(千葉県・鋸南町) 若狭和田海水浴場(福井県・高浜町) 乳岩・乳岩峡(愛知県・奥三河)。 なぜ三なのかは諸説あるようですが 「 人間は3つのものを並べると、  そこにある種の安定性や  まとまり感を抱く傾向がある 」とか。 お神籤を… 神代七世兆(平) ? 「これは男女ありていまだ  交わらざる兆にて  何事も時いたらず、  気永く時節を  待ちてなさされば、  よろしからず。物事静かに  心がくるときはよしとしるべし。」 とのこ...

鎌倉古道 十二所神社に詣でる 兎の彫刻のなぞとき

イメージ
朝夷奈切通 を通じて鎌倉へ バス通りを跨ぐと" 十二所神社 "。 祭神は 天神七代 と 地神五代 で 合わせで12ということ。 熊野大社では、 夫須美大神(伊邪那美大神)、 速玉大神(伊邪那岐大神)、 家津御子大神(素盞嗚尊)、 天照大神、忍穂耳命、 瓊々杵尊命、彦穗々出見尊、 鵜葺屋葺不合命、軻遇突智命、 埴山姫命、彌都波能命、 稚産霊命の十二柱を起っています。 熊野神 がイザナキ・イザナミ・スサノオ、 天照大神からの天津神、 イザナミの最後の子神です。 鎌倉の十二所神社では、 イザナキ・イザナミ以前の 神代七代 (かみよななよ)が " 天神7代 "とされ、 天照大神系統で神武天皇 の 直前までを" 地神5代 " としているようです。 明治以前は" 熊野十二所権現社 "と 呼ばれていたそうです。 " 権現" とは 本地垂迹思想 により、 権は仮のという意味を表します。 すなわち" 仏が仮の姿で現れた "のが、 神道の神様であるという考え方です。 熊野神社の十二の権現は、 熊野比丘尼 によって中世(12~16世紀)に、 広められたもので、 そのうちのひとつと考えられます。 はっきりした創建は不明ながら、 かつては同じ十二所にある 光触寺 の境内社であったもので、 1838年に現在地に遷座しました。 寿永元年(1182)、 北条政子 の出産で奉幣使が派遣、 二代将軍 源頼家 の誕生の折、 神馬が奉納されたとも… 社伝によれば弘安元年(1278)の創建、 『相模風土記』稿に 「按ずるに光觸寺境内に  熊野十二所の社あり、  是を村の鎮守とす」。 『十二所権現社再建記』には、 天保8年に明王院別所恵法が 社頭再営を志し、 天保9年(1838)現在地に 再建されたとされています。 社殿の柱には 兎の彫刻 。 熊野権現なら 八咫烏 なのでは?? なぜ兎なのか は調べても よくわかりませんでした。 古来中国から伝わってきた思想として、 太陽には烏が住み、 月には兎が住む というものがありますが、 兎を単独で押し出したりしないのです。 鎌倉の東端にあるため、 東=卯=兎 が掲げられたのでは という説がありました。 本殿裏手" やぐら "に祠。...

鎌倉古道 朝夷奈切通を征く 

イメージ
鎌倉七口 のうち最も高く 嶮岨(けんそ)といわれる " 朝夷奈切通 "へいざ!! 行ったのは ハマスタ雨天中止の翌朝 、 金沢八景駅から京急バスに乗って、 鎌倉駅へのバスルートなので、 便数は結構ありました。 バス車窓から" 鼻欠地蔵 "、 金沢区に残る二つの磨崖仏の一つ。 相州(鎌倉)と武州(金沢)の境、 双方の土地争いの仲裁役として 建立されたもの だそうですが、 争いが絶えないので お地蔵さんが見せしめに、 自ら鼻を欠いてしまった と 言い伝えられています。 『江戸名所図会』 に、 優しいお顔のお地蔵さんの 絵が残っています。 旅人が二人で、 お地蔵さんに向かって話を している様子が描かれています。 絵図には 鼻缺(はなかけ)地蔵 、 昭和19年(1944)に相武隧道が開通、 大船との交通が利便となり、 地形も大きく変わりました。 昔の人たちは、 「 地蔵の前 」と呼んでいたとか。 バス停を降りると案内板 バス通りから200m 大きなスダジイ 朝夷奈切通への入口には、 いくつかの石地蔵像 上に横たわっているのは、 横浜横須賀道路 です。 凝灰質の地層がくっきりと、 地質学的には朝夷奈切通では、 三浦層群池子層と上総層群浦郷層、 水の流れでできた堆積構造 。 奥入ると切り立った…まさに"切通" 仁治元年(1240)に鎌倉と 現在の横浜市金沢区にあたら " 六浦津 "との重要交通路として、 山稜部を開削した古道。 『 吾妻鏡 』には仁治2年(1241)に、 幕府執権であった 北条泰時 の指揮のもと、 六浦道の工事が行われた記事があり、 自分の乗馬に土石を運ばせて 工事を急がせたともいいます。 六浦は塩の産地だったそうで、 安房・上総・下総等の 関東の地をはじめ、 唐からの物資集散の港でした。 岩肌からも染み出す雨水 このあたりで引き返そうかとも… 滑りにくい靴ではありましたが、 後悔の念… 果たしてハマスタに戻れるのか? 熊野神社は 鎌倉の艮(鬼門) の 守りとして祀られたと 伝えられています。 鎌倉の秘境とも… ふだんでも人影もほぼないとか。 熊野三柱大神 速玉男命、 伊邪那岐命、伊邪那美命の 熊野三社 を勧請したことがはじまり。 ただ… 石段もあるという熊野神社への 参拝は叶いませ...