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"吉野をよくみる"その6 勝手明神のこと

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吉野山の守り神として 格式高い 延喜式内社 、 全国の" 勝手神社 "の総本山でしたが、 2001年の火災により本殿を焼失 。 長く吉水神社に御祭神を 仮遷座されていました。 創建は不明なるも 『日雄寺継統記』によれば、 孝安天皇6年12月 と伝えられ、 のちに天武天皇となった 大海人皇子が琴を奏でられ 、 天女が舞い降りて、 五度袖を振りながら舞った … 「五節の舞」 の 発祥地とされています。 大正天皇 即位の礼の五節舞 『御大礼記念写真帖』より 1915年刊 国立国会図書館所蔵 「 吉野山口神社 」「 勝手明神 」 とも称せられ、 吉野八社明神の一つとして、 大峰山参詣の山伏修験者の 行場の一つ ともなっています。 『静御前(古今名婦伝)』 国立国会図書館デジタルコレクション 静御前が捕らえられ、 勝手神社の神楽殿で 法楽の舞をさせられた 「 舞塚 」があります。 御祭神は 天之忍穂耳命 、 大山祇命、久々能智命、 木花咲耶姫命、苔虫命、 葉野姫命の六神で。 主神の"勝手"の御名 のとおり 勝運、必勝とあわせ、 芸能、山、桜の神として、 信仰を集めています。 こちら「 特別展 吉野・大峯 」で 初公開となった《 勝手明神坐像 》。 本殿にまつられる 武装形の神像 で、 勝手明神の本地仏は 毘沙門天 。 展覧会の事前調査で像内胸部に 墨書が見出され、 比丘尼道阿弥陀仏を願主とし、 仏師 慶観 (けいかん)が造立し、 絵師 俊尊(しゅんそん)が 彩色をほどこしたことが判明。 西大寺本の《吉野曼茶羅》 には、 本像と同図の像が描かれていて、 右隣には 若宮神像 が配されています。 本殿の火災により焼損した、 若宮神坐像 はこちら。 モノクロ写真にて… " 吉野曼茶羅 "には 吉野大峯の神々が 配置されています。 金峯神社の金精明神、 牛王天王、子守明神、 鷲尾神社、 勝手明神 、 佐抛(さなげ)明神、 そして威徳天満宮。 ヒノキとの割矧 (わりは)ぎ造り、 両腕や両脚部以下に別材、 兜を別に造ってかぶせ、 両腕を" 蟻枘 "(ありほぞ)と 呼ばれる木材接合する仕口。 刀は茎(なかご)があり、 刀身には「備前長艦守元」の 刻銘があるそうです。 春日大社の《流鏑馬木像》 は、 綾藺笠(あやい...

"吉野をよくみる"その5 吉野 吉水神社と義経

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義経といえば 義経千本桜 そして静御前… 後醍醐天皇玉座に至る 手前にある 「潜居の間」 源頼朝の追手から逃れ、 義経と静御前が過ごした場所。 静御前とはここで別れ、 義経・弁慶はさらに 女人禁制の大峰山へと 。 1畳ばかりの小部屋が 「 弁慶思案の間 」とされる。 《赤糸縅鎧》 大山祇神社所蔵 源平合戦勝利に奉納されたもの、 壇ノ浦で平家が滅亡の1185年との 伝承で伝えらています。 大鎧は主に馬上で弓をメインに 戦う者が着用したもの、 名のある武士は"大鎧"。 《源平合戦図屏風》 に描かれる大鎧、 ただこの屏風が描かれた時代のもので、 海戦では上級武士も着用していた 可能性は低いと思われます。 奉納は大鎧であったが、 実戦には胴丸や腹巻だったのでは? こちら吉水神社に遺る 義経所用の"色々威腹巻” 。 おそらく吉野に至っては、 腹巻を着けざるを えなかったのだったのでしょう。 義経家来の 佐藤忠信 の兜。 静御前 の"緋威腹巻残欠" そして弁慶の七つ道具 " 弁慶の力釘 " 説明板にはこうありました。 「時は文治元年鵞毛のごとく  散乱す雪の師走のこと、  ところは吉野山の僧坊・𠮷水院。  兄・頼朝の追手を逃れて転がり込んだ  義経・静御前・弁慶の一行は、  ここにその身を潜めて再起を図るべく、  知恵に知恵を絞っていたその最中、  すでに頼朝の触手はこの吉野山にも  伸びていたのであります。 ​「ここに義経が隠れているのであろう、  出てまいれ!」  𠮷水院の玄関先でわめく追手たち。 ​その騒ぎを聞いた武蔵坊弁慶は、 たちまちズッカと 丸腰のまま表へ飛び出した。 異様な凄みある大男の立ち姿に、 その場にいた追手たちは 一様におののいたのであります。 「この由緒ある寺院で 騒ぎ立てるとははなはだけしからん。 身共と力くらべで張り合うことの できる者がいるならば、 その者からお相手さしあげる!」 そう言うと弁慶は庭に置いてあった 大釘を二本手にし、 やにわに追手たちの真ん中にあった 岩の前まで進み出た。 片手で岩を鷲掴みに掴むと、 もう片手の親指を釘の頭部に当て、 全身全霊の力を込めて 「あえい!あえいやあ!!」と 烈火のごとく顔を真赤にして、 大釘を岩のてっぺんから 親指だけでぐいぐぐいと...

"吉野をよくみる"その4 吉野 南朝皇居をたずねる

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" 南朝皇居 "という碑がたつ 𠮷水神社 へ。 後醍醐天皇は𠮷水神社の書院を 南朝の皇居と定められた地。 天武天皇(673-686年在位)の時代に、 " 役行者 "によって創建された、 吉水院という修験の寺院がルーツと 伝えられています。 明治時代の神仏分離政策で、 南朝・後醍醐天皇の皇居とした 時期があったことから神社と なったそうです。 二礼・十七拍手・一拝 でお参りします。 古事記にある最初の神「天之御中主神」 から造化三神を含め、 別天津神と神世七代 「伊邪那岐神・伊邪那美神」が 現れるまでの十七の大神への 拝謝を表す"十七拍手" なのです。 明治天皇御製の歌碑 「くにたみは一つ心に守りけり  とほつみおやの神のをしへを」 " 明治維新は南朝の確立 "とあります。 「南北朝時代は南朝が正統で  北朝は間違っていたが、  皇統統一後は北朝系の皇族が  皇位を引き継いでいる」との言葉を 残していた明治天皇なので?ですが… 𠮷水神社に遺る 後醍醐帝御宸筆 「祈り之文  祈りのことかやうにうけたまり候  返せ人として申候はよろこび入り候  僧正の房にもおなし御事と申され候は  ただいま ちと とりみだしたる事に  申しまいらせ候   以上 かしこ」とある。 後醍醐天皇玉座 の手前にも " 南朝皇居 "の扁額が掲げられています。 延元元年(1336年)後醍醐天皇が 京の花山院より秘かに吉野に行幸。 吉水院の宗信法印が300名の僧兵を従え、 天皇をここに御迎えしたのです。 後醍醐天皇はこの部屋を南朝の 皇居と定められたののです。 建武の中興と王政復古 を願われましたが、 延元四年(1339年)にこの地で 御崩御なされたのです。 「花にねて よしや吉野の𠮷水の  枕のもとに 石走る音」 後醍醐天皇の御製は、 吉水院で御寝 の際に歌われたもの。 玉座は桃山式書院で 帳台構 "ちょうだいがまえ"と呼ばれるもの。 上段の間 五畳と下段 十畳で構成、 南北朝時代なのになぜ"桃山式"?? 文禄3年(1593)に 豊臣秀吉 が 南朝を偲んで吉水院を本陣とし、 いわゆる吉野の花見で、 この部屋に約5日間滞在。 秀吉の寄贈により修繕されたもの...