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菅公腰掛石と"させんどう"

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諏訪神社にある末社" 腰掛天満宮" 、 時に901年(延喜元)のこと、 菅原道真 が大宰府配流の道中、 藤井寺の 道明寺の伯母 へ挨拶する前に、 立ち寄ったとされる。 "腰掛石" は諏訪神社前の道沿いに あったようですが、 腰掛天満宮 の前に移設、 1976年3月の御本殿造営の折、 旧本殿も現在の場所に。 "腰掛石" の姿形は、 菅公の棺を曳いた "牛"の形になっている とも。 歴史著名人が腰掛けたという 伝承は点在するが、 菅原道真に関する石は、 Google検索すると 全国25か所 存在するそうで … 源義経 は8か所程度なので、 ダントツの菅公腰掛石 。 道真はやたらと 手ごろな石に腰掛けた!? 道真が大宰府に向かう道すがら 立ち寄って腰掛けた、 とされる石が祀られている。 仁和寺 には、 宇多天皇に別れを告げるため、 帰りを待つ間に腰掛けた石。 乳母の多治比文子 に 立ち寄った" 文子天満宮 "、 その次がここ 腰掛天満宮 。 堺市堺区西湊町にある " 船待神社 " では船を待つ間。 太宰府へ流される途中、 明石の駅家で休息をとった ”休(やすみ)天神社” 、 尾道の "御袖天満宮" 、 松山市にある "辰岡天満宮" は、 腰掛天神 とも呼ばれるとか。 左遷された際、後難を恐れて 鹿児島の 出水市 や 薩摩川内市 には、 腰掛石伝説が遺されています。 諏訪神社 には 地車 があり、 夏祭本宮は 7月の第3日曜、 秋祭の本宮は10月の第3日曜、 どちらにせよ来年までお預け。 2019年5月に新調された地車。 姿見の破風懸魚には、 "諏訪神社 道真腰掛岩に座る" 。 村人たちは道真に同情し、 地名を "左遷道" と改め、 のちに "左専道" とされました。 "左遷"は聞こえが悪い ので、 改めたのでしょうね。 小屋根の懸魚には " 諏訪獅子奉納之舞 "。 " 木村重成 左専道之合戦 " 1614年(慶長19)の 大坂冬の陣 、 初陣を飾った豊臣方の若武将 木村重成 が 後藤又兵衛 らとと...

江戸東京の水道を探る〜近代水道誕生

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文明開化のかけ声… 新橋・横浜間の鉄道開通 1872年、 銀座に煉瓦街誕生 1873 年、 ガス灯が輝く1874年など、 東京の風景は急激に変化。 ただその一方で、 水道は依然として 江戸期の神田・玉川上水のまま でした。 浄水処理がほどこされていない 河川水そのものが石樋・木樋で 上水井戸に配水されたままでした。 玉川上水路を利用して千駄ヶ谷へ 浄水場の建設計画がありましたが、 凹凸高低があって構造上必要な、 沈殿池やろ過池には危険であると、 そう唱えたのは、 当時青年技師だった 中島鋭治 という人。 代田橋と淀橋間を直線で結ぶ 新しい導水路の建設により、 沈殿池の水面が当初予定地の 水面よりも約5mも高くなり、 ポンプ動力等経費の節減を可能に。 約5mの高低差を無駄にせずに、 浄水場(千駄ヶ谷を淀橋に変更)と 給水所(小石川近傍を      本郷・芝に変更)の位置変更した。 水道施設に消火設備を設置、 1887年代初めの近代水道設計に、 水道配管の付属設備として 盛り込まれました。 黄色の本体に赤で "消火栓" 、 青で東京都の亀甲マーク、 欧米にならった彩色で"黄色"、 近代水道とこれまでの 上水との大きな違いは "浄水"、"加圧送水"、"鉄管" 、 安全な水が必要な場所に 安定して配水することが 可能になったのです。 1898年12月、 東京市に近代水道が誕生。 自宅まで水道をひけない 人たちのために、  町のあちこちに、 カギで管理する 共用栓 が設置。 淀橋浄水場から給水を開始、 1899年末までにほぼ市内全域へ 給水が実施されたのですが、 東京市は現在の23区のごく一部。 1日平均1人あたり約110L の 使用量だったそうです。 大正時代末期は一人あたり180L 、 ただ関東大震災の水道施設への 被害も甚大でした… 自然災害や戦争による 大きな被害を受けましたが、 これらの体験は、 より強固な水の道へと繋がりました。 1921年の地震では、 新水路に被害があり、 汚染の可能性があったとか。 "塩素消毒" が初めて 行われるようになったのです。 関東大震災 では、 専用栓は約 64%が焼失、 漏水防止に3年を要しました。 ポンプ動力が蒸...

江戸東京の水道を探る〜江戸のころ

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文京区本郷にある "東京都水道歴史館" へ… 神宮球場遠征 のときに寄りました。 御茶ノ水駅 をこえて歩いて8分、 順天堂大学 の裏あたり。 江戸時代から400年続く 東京の水道の歴史を辿る。 江戸の上水井戸 地中に埋められた樋により 配水されました。 石や木で作られた樋は、 現在の水道設備のように 配水管、給水管の役割、 様々な大きさや形の木樋が 継手により連結され、 上水井戸 へと給水されたそうです。 上水井戸は共同で使用され、 各家では上水井戸から水を汲み、 水瓶か水桶にためて、 生活に利用したのです。 文京区本郷一丁目先の外堀通りで、 神田川分水路の工事中発掘された "神田上水石桶” が歴史館の裏手に、 移設保存されていました。 "神田上水" は1590年(天正18)、 徳川家康の江戸入府に先立ち、 家臣・ 大久保藤五郎 に 上水開設を命じたものです。 小石川に水源を求め、 目白台下の流れを利用し、 神田方面へ通水させたと 伝えられています。 《名所江戸百景 玉川堤の花》  歌川広重 画 家光が三代将軍となると、 諸国の武家が江戸に集まり、 生活を支える町人が増え、 江戸の人口は増加したことで、 水需要が増大しました。 神田上水に加え、 江戸町人であった 庄右衛門、清右衛門兄弟 が、 多摩川を水源 に開設したのが、 1654年(承応3)の "玉川上水" 。 《名所江戸百景   四ツ木通用水引ふね》  歌川広重 画 明暦の大火 後の江戸の復興、 本所、深川の町づくりで 開設されたのが "亀有上水" 。 隅田川東側への給水を可能に、 元荒川に堰を作って溜井とし、 埼玉県北足立郡を経て、 亀有に入り南下させた。 後に "本所上水" と 呼ばれました。 《冨嶽三十六景 隠田の水車》  葛飾北斎 画 "青山上水" を利用の "隠田の水車" 、 青山上水は1660年(万治3)に 雑賀仁左衛門、木瓜屋庄兵衛 によって開設されたもの。 1722年(享保7)に廃止されたが、 1882年(明治15)から "麻布水道" 、 近代水道敷設まで利用されたとか。 たとえ大名であっても、 門前を流れている上水を 幕府の許...