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大和郡山 豊臣秀長を辿る 龍華山永慶寺

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大和郡山城のすぐ傍ら、 黄檗宗 龍華山 永慶寺 。 江戸時代中期から後期にかけて、 郡山を統治した 柳沢家の菩提寺 。 柳沢家は 徳川綱吉 の御代、 大老職の柳澤吉保 が寵愛を受け、 権勢をふるったとされます。 1704年(宝永元)のこと 柳澤吉保が十五万石余の俸禄で、 甲斐国甲府城主に任ぜら、 1711(宝永7)甲斐国岩窪村の 躑躅ヶ崎に菩提寺を建立。 吉保の戒名は、 永慶寺殿保山元養大居士 で、 寺号の所以です。 阿波野青畝 の句碑 「山涼し みやこ忘れと 聞くからに」 甲府柳澤藩が大和郡山へ 国替えとなったのは、 1724年(享保9)のことで、 永慶寺も柳澤家と共に 遷されたのだそうです。 永慶寺山門は 豊臣秀長 の時代に 郡山城の南御門 として建築され、 当時の郡山城の遺構として 大和郡山市に残る唯一の建造物。 棟門形式の小形の門で、 主柱に横木をわたし、 その上に桟瓦を葺いた切妻屋根、 八双金物、乳金物がついた 内開きの板扉を鉄製の脇壷で吊り、 戸締まりは木製かんぬき。 安土桃山時代の城門の 建築様式を伝えています 。 幕末に永慶寺山門として 移築されたものです。 説明板は判読が難しい… 2002年3月に設置されたもの。 こちらの弁天門 弁天堂 「金魚田の ありとも見えず 町繁華」 森田峠 は青畝の門下で、 俳誌『かつらぎ』の主宰を 青畝より引き継いだ人。 古川松柏 の書いた 「大和郡山に於ける  金魚育養の方法」 によると… 1738年(元文3)郡山藩士の 佐藤三左衛門が溜池で発見したと。 1724年(享保9) 柳澤吉里 が 甲府より郡山城に入部したとき、 家臣 横田又兵衛が 金魚を観賞用に持参 したのが 始まりであるともいわれている。 幕末頃には下級武士家の 内職的なものとなり、 廃藩置県後は 集団的養魚場 ができ、 大量生産時代を迎えたのです。 ”大和郡山 豊臣秀長を辿る” こちらで最終回となります。

大和郡山 豊臣秀長を辿る 大手門から大河ドラマ館へ

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郡山城 追手門 は豊臣秀長が、 入城時期に築かれたものだ と言われています。 秀長なきあと 養子 秀保 、 増田長盛 とうけ継がれましたが、 関ケ原の戦いののちに、 西軍の敗北となり、 郡山城は徳川方に接収されて、 城は取り壊しとなり、 大手門も含めて多くが 伏見城に移されたました 。 現在のものは、 築城400年を記念して 1980年に復元されたもの、 五三桐 が施されています。 当時は" 一庵丸門 "(いちあんまるもん) と呼ばれたそうです。 豊臣秀長と秀保に仕えた家老、 横浜一庵 (桑山一庵)の 名前に由来しています。 1724年(享保9)3月11日、 禁裡守護の大任を帯びて 十五万石余をもって甲府城から 郡山に移封なった 柳澤甲斐守吉里 、 一庵丸門を" 梅林門 "と名を替えました。 追手向門櫓 。 追手門を守るための櫓で、 本多氏時代(1639-1723)は 大手先艮角 (うしとら) 櫓 と 呼ばれていました。 柳沢氏入城後(1724年)に追手向櫓に、 1873年(明治6)に取り払い。 記録によると、 下重は4間2尺に5間、 上重は2間四方の二重櫓と伝わります。 近鉄電車の電車からみえる城は、 追手向門櫓です。 線路沿いの道で実施されてたのが、 " 豊臣兄弟!大和郡山大河ドラマ館 "です。 DMG MORI やまと郡山城ホールで、 来年の1月22日まで開催の予定です。 秀吉、秀長、そして慶。 ただ俳優さんのサインとかは カメラNGです。 小一郎と秀吉の前立て 紛い物の平蜘蛛 蜘蛛が這いつくばっているような 姿に見えたので"平蜘蛛”の名。 月岡芳年 が描いた 平蜘蛛を割る松永久秀 。 江戸期の 浮世絵 では、 平蜘蛛釜を打ち壊し、 切腹するさまが描かれ… さらに戦後の描写には、 爆薬を仕込みともに爆散。 大河でもそんな感じでしたね。 ドラマ館の入り口前には秀長像。

大和郡山 豊臣秀長を辿る 郡山八幡神社

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1585年(天正13)の秀長が郡山城築城、 城下町の整備で場所へ社地を 遷座・再建したのだという、 郡山八幡神社 。 柳町の町作り完成により現在の 柳四丁目へ移ったと伝えられます。 御祭神は、 誉田別命、比売大神、気長足媛命。 柳八幡宮 とも呼ばれていたとか、 鎮座は室町時代と伝わります。 本殿奥には 郡山城の土塁 が 現在も残っているとか… ちょっと回り込めませんでした。 " グラブ神社 "とも呼ばれていて、 実は奈良は野球のグラブ生産量が 日本一なんだそうです。 野球の上達祈願をはじめ、 さまざまな活動を行われていて、 チーム守備上達祈祷やグラブ祭り、 中古グラブを集めて供養・洗浄、 カリブやドミニカ の子供たちに 贈るといった取り組みが なされているそうです。 清和源氏、桓武平氏など 武家から信仰を受け、 " 弓矢八幡 "として崇敬を 集めていたそうで、 かつて武家の守護神として 崇められた八幡神のご利益が、 野球のサムライとしての 祈祷が行われるそうです。 こちら7月16日に行われる 神明祭と呼ばれる 夏の大祭でのお飾りだとか、 きっと 金魚 なんでしょうね。

大和郡山 豊臣秀長を辿る 霞渓山 洞泉寺

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源九郎稲荷神社 のすぐそばに、 浄土宗寺院 霞渓山 洞泉寺 。 ググると愛知県豊田市にもあった… 浄土宗総本山知恩院の直末 とか。 大和郡山の洞泉寺は、 1581年(天正9) 宝誉上人 が、 三河国挙毋(ころも)より 大和国 長安寺村に再建。 1585年(天正13)に大和郡山城 築城の際に 豊臣秀長 が、 移転させた浄土宗の寺院。 秀長のイラスト入りの御朱印も いただけるそうです。 郡山城の大書院の沓脱石 が、 " 垢かき地蔵 "として 祀られています。夢のお告げを受けた 秀長によって掘り起こされた、 との伝承も遺されています。 祀られているお堂の扁額には、 光明皇后勅願 垢かき湯船地蔵尊 とあります。 奈良時代に 光明皇后 が難病に 苦しむ人々を救うため、 病気平癒を祈願して造らせたとか。 夢告を得て秀長が掘り起こし、 寺に祀ったものだといわれています。 風呂の湯をこの地蔵に掛け流して 浴槽に溜めていたとされた… 湯を溜めていた石の浴槽は、 寺務所そばに置かれていました。 こちら本堂です。 事前に予約必須だったので、 拝観の機会を持てませんでしたが… ご本尊の 木造阿弥陀如来及両脇侍立像 。 鎌倉時代の慶派仏師の作 と伝わります。 寄木作りの玉眼像ですが、 構造は不詳です。 金泥塗りで、 中尊・脇侍ともに目鼻立ちよく整い、 とくに中尊の衣文は流麗です。 阿弥陀像の衣文は流麗、 華麗な截金文様が施す。 寺伝では快慶作 ですが、 鎌倉中後期の制作とされていて、 光背と台座は後補されたもの。 " 源九郎天 仮本殿 "とあるお堂。 おそらく 源九郎稲荷神社 とは、 深い関係…いやゆる寺内社。 屋根には 狐さん が居られました。

大和郡山 豊臣秀長を辿る 源九郎稲荷神社

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「大和の大和の  源九郎さん遊びましょう」 という童謡が伝わる社、 神徳広大の 源九郎稲荷神社 。 天正年間(1573-1592年)に 豊臣秀長 が深く崇敬し、 郡山城築城の守護神として、 遠く 吉野川のほとり より 遷座したとのこと。 城主・町民にも信仰厚く、 盛大な祭典を執行し、 献納の品々が多かったと、 隣接する『 洞泉寺記録 』に 記されているのです。 祭神は 宇迦之御魂神 、 伊勢外宮・伏見稲荷大社の主神と同体 。 天智天皇 の白鳳年間に遡り、 寛平稲荷を祈って出陣したという。 明神はたちまち武人と化し、 数多の 白狐を遣い 、 天下は平静となったと…・・ 『大伴真鳥実記』巻八にあるとか。 源義経 も稲荷を深く信仰し、 そのしるしとして、 幼名" 源九郎 "の名を 贈ったという言い伝え。 『 義経千本桜 』は 二代目竹田出雲・ 三好松洛・並木千柳の合作ですが、 このことを知っていたのでしょうね。 千本桜の" 狐忠信 "というのは、 源九郎稲荷の化身 で、 九郎判官義経は信仰し、 しばしば奇異の戦功を挙げたと。 奥州に下られる訣別で、 幼名 源九郎 を贈られたのが 源九郎稲荷と称する所以なのです。 「義経千本桜」 の上演に際し、 俳優の 市川猿之助 さんらが 参拝に訪れられるそうです。 『洞泉寺縁起』にはこんな話も、 1615年(元和元)の大阪夏の陣の戦い、 豊臣方の 大野治房 による 郡山城攻撃が行われた際、城下も焼け、 その中心へと火が迫ってきたのを見た 洞泉寺住職 天誉和尚が 源九郎狐に祈願 したところ、 突然大雨が降り大火を免れたとも。 拝殿前の二匹の狐は宝珠と 巻物をそれぞれくわえており、 「宝珠に触れば金持ちになり、  巻物に触れば賢くなる」 といわれているそうで、 "巻物"に手を触れてきました。 源九郎ぎつねにちなみ、 春の大和郡山お城まつりでは、 白狐面をつけた子ども行列が 練り歩く「 白狐渡御 (とぎょ)」が 行われているそうです。