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"吉野をよくみる"その7 威徳天満宮

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金峯山本堂 蔵王堂に向かって 左に鎮座する" 威徳天満宮 "。 社伝によると、平安時代の 天徳3年9月5日に鎮座したとか。 竹林院 の前身にあたる 椿山寺で出家した 日蔵道賢 という僧が、 大峯山中の笙の窟という所で 修行中のある日、 急に仮死して閻魔宮へ 。 そこで冥土をさまよっている 天子の衣服を着けた人に出会った… 《醍醐天皇像》 醍醐寺三宝院蔵 「自分は 延喜の帝(醍職天皇) である。  生前は善政を行ったつもりだが、  ただ 藤原時平 の告げ口のよって、   菅原道真 を九州の  太宰府へ流してしまった。  その罪によって  死後の苦しみに会っている。  生前、私が師と仰いだ上人よ。  再び生き返って  道真の霊をまつって欲しい。  そうしたら私はこの苦しみから  救われるだろう。」 この世に蘇った日蔵は、 修行を終えると吉野山に戻り、 威徳天満宮として祀ったのだという。 日蔵道賢は 如意輪寺 を開基した。 『 北野天神縁起絵巻 』一巻にみられる 『 日蔵夢記 』には日蔵道賢が 天神と化した道真と会うエピソードが 記されています。 道真が語るに 「 火雷天神は自分の眷属であり、  自分は日本 太政威徳天 という」と、 天満大自在天神の神号の菅原道真。 《大自在天》  ダンダン・ウィリク出土 " 大自在天 "は 元々ヒンドゥー教の神 シヴァ 、 三つの目と八本の腕を持ち、 白い牛にまたがった姿で あらわされます。   長岡天満宮の撫牛 大自在天が乗られる牛は、 臥牛の姿 です。 天満宮の撫牛もほとんどが、 臥せていますね。 《 大威徳明王 》京都 東寺 839年 菅公のもう一つの神号である " 日本太政威徳天 "で、 これは密教の 大威徳明王 に由来、 こちらの水牛も臥牛。 吉野の威徳天満宮にもどります。 桃山時代の様式をよく伝えていて、 豊臣秀頼の改修によるものとか。 1998年9月の台風7号の被害を 受けたものの3年後に復旧。 蟇股装飾がみごとでした。 東京の 静嘉堂文庫美術館 が 所蔵する《 松梅天神像 》。 表具裏面の墨書によると、 吉野で開かれた例月連歌会の 本尊 であったそうです。 威徳天満宮で室町時代には、 連歌会が行われていたが、 拝殿がなくなったため、 輪番で勤めたことにより、 吉...

"吉野をよくみる"その6 勝手明神のこと

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吉野山の守り神として 格式高い 延喜式内社 、 全国の" 勝手神社 "の総本山でしたが、 2001年の火災により本殿を焼失 。 長く吉水神社に御祭神を 仮遷座されていました。 創建は不明なるも 『日雄寺継統記』によれば、 孝安天皇6年12月 と伝えられ、 のちに天武天皇となった 大海人皇子が琴を奏でられ 、 天女が舞い降りて、 五度袖を振りながら舞った … 「五節の舞」 の 発祥地とされています。 大正天皇 即位の礼の五節舞 『御大礼記念写真帖』より 1915年刊 国立国会図書館所蔵 「 吉野山口神社 」「 勝手明神 」 とも称せられ、 吉野八社明神の一つとして、 大峰山参詣の山伏修験者の 行場の一つ ともなっています。 『静御前(古今名婦伝)』 国立国会図書館デジタルコレクション 静御前が捕らえられ、 勝手神社の神楽殿で 法楽の舞をさせられた 「 舞塚 」があります。 御祭神は 天之忍穂耳命 、 大山祇命、久々能智命、 木花咲耶姫命、苔虫命、 葉野姫命の六神で。 主神の"勝手"の御名 のとおり 勝運、必勝とあわせ、 芸能、山、桜の神として、 信仰を集めています。 こちら「 特別展 吉野・大峯 」で 初公開となった《 勝手明神坐像 》。 本殿にまつられる 武装形の神像 で、 勝手明神の本地仏は 毘沙門天 。 展覧会の事前調査で像内胸部に 墨書が見出され、 比丘尼道阿弥陀仏を願主とし、 仏師 慶観 (けいかん)が造立し、 絵師 俊尊(しゅんそん)が 彩色をほどこしたことが判明。 西大寺本の《吉野曼茶羅》 には、 本像と同図の像が描かれていて、 右隣には 若宮神像 が配されています。 本殿の火災により焼損した、 若宮神坐像 はこちら。 モノクロ写真にて… " 吉野曼茶羅 "には 吉野大峯の神々が 配置されています。 金峯神社の金精明神、 牛王天王、子守明神、 鷲尾神社、 勝手明神 、 佐抛(さなげ)明神、 そして威徳天満宮。 ヒノキとの割矧 (わりは)ぎ造り、 両腕や両脚部以下に別材、 兜を別に造ってかぶせ、 両腕を" 蟻枘 "(ありほぞ)と 呼ばれる木材接合する仕口。 刀は茎(なかご)があり、 刀身には「備前長艦守元」の 刻銘があるそうです。 春日大社の《流鏑馬木像》 は、 綾藺笠(あやい...

"吉野をよくみる"その5 吉野 吉水神社と義経

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義経といえば 義経千本桜 そして静御前… 後醍醐天皇玉座に至る 手前にある 「潜居の間」 源頼朝の追手から逃れ、 義経と静御前が過ごした場所。 静御前とはここで別れ、 義経・弁慶はさらに 女人禁制の大峰山へと 。 1畳ばかりの小部屋が 「 弁慶思案の間 」とされる。 《赤糸縅鎧》 大山祇神社所蔵 源平合戦勝利に奉納されたもの、 壇ノ浦で平家が滅亡の1185年との 伝承で伝えらています。 大鎧は主に馬上で弓をメインに 戦う者が着用したもの、 名のある武士は"大鎧"。 《源平合戦図屏風》 に描かれる大鎧、 ただこの屏風が描かれた時代のもので、 海戦では上級武士も着用していた 可能性は低いと思われます。 奉納は大鎧であったが、 実戦には胴丸や腹巻だったのでは? こちら吉水神社に遺る 義経所用の"色々威腹巻” 。 おそらく吉野に至っては、 腹巻を着けざるを えなかったのだったのでしょう。 義経家来の 佐藤忠信 の兜。 静御前 の"緋威腹巻残欠" そして弁慶の七つ道具 " 弁慶の力釘 " 説明板にはこうありました。 「時は文治元年鵞毛のごとく  散乱す雪の師走のこと、  ところは吉野山の僧坊・𠮷水院。  兄・頼朝の追手を逃れて転がり込んだ  義経・静御前・弁慶の一行は、  ここにその身を潜めて再起を図るべく、  知恵に知恵を絞っていたその最中、  すでに頼朝の触手はこの吉野山にも  伸びていたのであります。 ​「ここに義経が隠れているのであろう、  出てまいれ!」  𠮷水院の玄関先でわめく追手たち。 ​その騒ぎを聞いた武蔵坊弁慶は、 たちまちズッカと 丸腰のまま表へ飛び出した。 異様な凄みある大男の立ち姿に、 その場にいた追手たちは 一様におののいたのであります。 「この由緒ある寺院で 騒ぎ立てるとははなはだけしからん。 身共と力くらべで張り合うことの できる者がいるならば、 その者からお相手さしあげる!」 そう言うと弁慶は庭に置いてあった 大釘を二本手にし、 やにわに追手たちの真ん中にあった 岩の前まで進み出た。 片手で岩を鷲掴みに掴むと、 もう片手の親指を釘の頭部に当て、 全身全霊の力を込めて 「あえい!あえいやあ!!」と 烈火のごとく顔を真赤にして、 大釘を岩のてっぺんから 親指だけでぐいぐぐいと...