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大倉集古館をたずねて vol.1 大倉喜八郎コレクション

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大倉喜八郎コレクション が 集められた" 大倉集古館 "を はじめて訪問しました。 幕末から昭和に築き上げた、 日本の十五大財閥の一つ大倉財閥。 館前に腰掛ける《 大倉鶴彦翁像 》、 鶴彦とは大倉喜八郎の別称。 幼名は鶴吉、のちに鶴彦と称し、 晩年は鶴翁と呼ばれました。 京都の 祇園閣 の屋根にそびえる 銅柱には鶴が羽を広げています。 創始者の大倉喜八郎は 越後国新発田に生まれ、 江戸での乾物商ののち、 幕末の動乱で銃砲販売 。 明治維新後の1873年に 大倉組商会 を設立し、 西南戦争や日清・日露戦争で 事業を拡大しました。 《大倉邸と大倉美術館》 1913年(大正2)頃の外観で、 美術館は3号館まであったそうで、 高台にあって東京湾をのぞめたとか。 大倉喜八郎が生きておられた時代は、 邸内の一画にこの扁額「 博物館 」が、 母屋に接続した建物に 掲げられていたそうです。 自邸を訪れる賓客たちを もてなしていたと伝えられます。 扁額は 徳川慶喜 の筆、 往事を知る貴重な資料の一つです。 関東大震災で建物と 約3300点の収蔵品を焼失… 火災の惨状を後世に伝え、 災害を研究する資料とするため 、 喜八郎は被災した煉瓦造りの 建物をしばらく保存していました。 大倉集古館 の扁額は 中華民国大統領をつとめた 徐世昌※ の揮毫だそうです。 第二次世界大戦後の GHQによる財閥解体で解散。 帝国ホテル や サッポロビール 、 東京経済大学 前身の 大倉商業学校の設立など、 多方面の活躍に尽力されました。 1928年(大正3)に再開館したのが、 伊東忠太 設計による 耐震耐火の壮麗な中国風建物。 凝灰岩に施された 親柱のレリーフ。 階段の柱頭飾りの 獅子 たち。 少しづつ意匠がことなっています。 2階天井には 龍 の姿 斗栱 (ときょう)と呼ばれる 軒を支える柱の上部、 吻 (ふん)とよばれる幻獣が デザインされています。 京都の 西本願寺伝道院の珍獣 … 伊東忠太さんの建築には、 多くの幻獣 がみられます。 東京・築地本願寺 の 羽の生えた獅子。 屋根の "正吻"の頭は獅子、足は龍、 尻尾は水流 を表わし、 先端は巴形になててます。 大倉集古館の傍吻の振舞などは、 まさに" 気をやる "を表現している とされてい...

大和郡山 豊臣秀長を辿る 龍華山永慶寺

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大和郡山城のすぐ傍ら、 黄檗宗 龍華山 永慶寺 。 江戸時代中期から後期にかけて、 郡山を統治した 柳沢家の菩提寺 。 柳沢家は 徳川綱吉 の御代、 大老職の柳澤吉保 が寵愛を受け、 権勢をふるったとされます。 1704年(宝永元)のこと 柳澤吉保が十五万石余の俸禄で、 甲斐国甲府城主に任ぜら、 1711(宝永7)甲斐国岩窪村の 躑躅ヶ崎に菩提寺を建立。 吉保の戒名は、 永慶寺殿保山元養大居士 で、 寺号の所以です。 阿波野青畝 の句碑 「山涼し みやこ忘れと 聞くからに」 甲府柳澤藩が大和郡山へ 国替えとなったのは、 1724年(享保9)のことで、 永慶寺も柳澤家と共に 遷されたのだそうです。 永慶寺山門は 豊臣秀長 の時代に 郡山城の南御門 として建築され、 当時の郡山城の遺構として 大和郡山市に残る唯一の建造物。 棟門形式の小形の門で、 主柱に横木をわたし、 その上に桟瓦を葺いた切妻屋根、 八双金物、乳金物がついた 内開きの板扉を鉄製の脇壷で吊り、 戸締まりは木製かんぬき。 安土桃山時代の城門の 建築様式を伝えています 。 幕末に永慶寺山門として 移築されたものです。 説明板は判読が難しい… 2002年3月に設置されたもの。 こちらの弁天門 弁天堂 「金魚田の ありとも見えず 町繁華」 森田峠 は青畝の門下で、 俳誌『かつらぎ』の主宰を 青畝より引き継いだ人。 古川松柏 の書いた 「大和郡山に於ける  金魚育養の方法」 によると… 1738年(元文3)郡山藩士の 佐藤三左衛門が溜池で発見したと。 1724年(享保9) 柳澤吉里 が 甲府より郡山城に入部したとき、 家臣 横田又兵衛が 金魚を観賞用に持参 したのが 始まりであるともいわれている。 幕末頃には下級武士家の 内職的なものとなり、 廃藩置県後は 集団的養魚場 ができ、 大量生産時代を迎えたのです。 ”大和郡山 豊臣秀長を辿る” こちらで最終回となります。

大和郡山 豊臣秀長を辿る 大手門から大河ドラマ館へ

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郡山城 追手門 は豊臣秀長が、 入城時期に築かれたものだ と言われています。 秀長なきあと 養子 秀保 、 増田長盛 とうけ継がれましたが、 関ケ原の戦いののちに、 西軍の敗北となり、 郡山城は徳川方に接収されて、 城は取り壊しとなり、 大手門も含めて多くが 伏見城に移されたました 。 現在のものは、 築城400年を記念して 1980年に復元されたもの、 五三桐 が施されています。 当時は" 一庵丸門 "(いちあんまるもん) と呼ばれたそうです。 豊臣秀長と秀保に仕えた家老、 横浜一庵 (桑山一庵)の 名前に由来しています。 1724年(享保9)3月11日、 禁裡守護の大任を帯びて 十五万石余をもって甲府城から 郡山に移封なった 柳澤甲斐守吉里 、 一庵丸門を" 梅林門 "と名を替えました。 追手向門櫓 。 追手門を守るための櫓で、 本多氏時代(1639-1723)は 大手先艮角 (うしとら) 櫓 と 呼ばれていました。 柳沢氏入城後(1724年)に追手向櫓に、 1873年(明治6)に取り払い。 記録によると、 下重は4間2尺に5間、 上重は2間四方の二重櫓と伝わります。 近鉄電車の電車からみえる城は、 追手向門櫓です。 線路沿いの道で実施されてたのが、 " 豊臣兄弟!大和郡山大河ドラマ館 "です。 DMG MORI やまと郡山城ホールで、 来年の1月22日まで開催の予定です。 秀吉、秀長、そして慶。 ただ俳優さんのサインとかは カメラNGです。 小一郎と秀吉の前立て 紛い物の平蜘蛛 蜘蛛が這いつくばっているような 姿に見えたので"平蜘蛛”の名。 月岡芳年 が描いた 平蜘蛛を割る松永久秀 。 江戸期の 浮世絵 では、 平蜘蛛釜を打ち壊し、 切腹するさまが描かれ… さらに戦後の描写には、 爆薬を仕込みともに爆散。 大河でもそんな感じでしたね。 ドラマ館の入り口前には秀長像。

大和郡山 豊臣秀長を辿る 郡山八幡神社

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1585年(天正13)の秀長が郡山城築城、 城下町の整備で場所へ社地を 遷座・再建したのだという、 郡山八幡神社 。 柳町の町作り完成により現在の 柳四丁目へ移ったと伝えられます。 御祭神は、 誉田別命、比売大神、気長足媛命。 柳八幡宮 とも呼ばれていたとか、 鎮座は室町時代と伝わります。 本殿奥には 郡山城の土塁 が 現在も残っているとか… ちょっと回り込めませんでした。 " グラブ神社 "とも呼ばれていて、 実は奈良は野球のグラブ生産量が 日本一なんだそうです。 野球の上達祈願をはじめ、 さまざまな活動を行われていて、 チーム守備上達祈祷やグラブ祭り、 中古グラブを集めて供養・洗浄、 カリブやドミニカ の子供たちに 贈るといった取り組みが なされているそうです。 清和源氏、桓武平氏など 武家から信仰を受け、 " 弓矢八幡 "として崇敬を 集めていたそうで、 かつて武家の守護神として 崇められた八幡神のご利益が、 野球のサムライとしての 祈祷が行われるそうです。 こちら7月16日に行われる 神明祭と呼ばれる 夏の大祭でのお飾りだとか、 きっと 金魚 なんでしょうね。