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大和郡山 豊臣秀長を辿る 霞渓山 洞泉寺

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源九郎稲荷神社 のすぐそばに、 浄土宗寺院 霞渓山 洞泉寺 。 ググると愛知県豊田市にもあった… 浄土宗総本山知恩院の直末 とか。 大和郡山の洞泉寺は、 1581年(天正9) 宝誉上人 が、 三河国挙毋(ころも)より 大和国 長安寺村に再建。 1585年(天正13)に大和郡山城 築城の際に 豊臣秀長 が、 移転させた浄土宗の寺院。 秀長のイラスト入りの御朱印も いただけるそうです。 郡山城の大書院の沓脱石 が、 " 垢かき地蔵 "として 祀られています。夢のお告げを受けた 秀長によって掘り起こされた、 との伝承も遺されています。 祀られているお堂の扁額には、 光明皇后勅願 垢かき湯船地蔵尊 とあります。 奈良時代に 光明皇后 が難病に 苦しむ人々を救うため、 病気平癒を祈願して造らせたとか。 夢告を得て秀長が掘り起こし、 寺に祀ったものだといわれています。 風呂の湯をこの地蔵に掛け流して 浴槽に溜めていたとされた… 湯を溜めていた石の浴槽は、 寺務所そばに置かれていました。 こちら本堂です。 事前に予約必須だったので、 拝観の機会を持てませんでしたが… ご本尊の 木造阿弥陀如来及両脇侍立像 。 鎌倉時代の慶派仏師の作 と伝わります。 寄木作りの玉眼像ですが、 構造は不詳です。 金泥塗りで、 中尊・脇侍ともに目鼻立ちよく整い、 とくに中尊の衣文は流麗です。 阿弥陀像の衣文は流麗、 華麗な截金文様が施す。 寺伝では快慶作 ですが、 鎌倉中後期の制作とされていて、 光背と台座は後補されたもの。 " 源九郎天 仮本殿 "とあるお堂。 おそらく 源九郎稲荷神社 とは、 深い関係…いやゆる寺内社。 屋根には 狐さん が居られました。

大和郡山 豊臣秀長を辿る 源九郎稲荷神社

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「大和の大和の  源九郎さん遊びましょう」 という童謡が伝わる社、 神徳広大の 源九郎稲荷神社 。 天正年間(1573-1592年)に 豊臣秀長 が深く崇敬し、 郡山城築城の守護神として、 遠く 吉野川のほとり より 遷座したとのこと。 城主・町民にも信仰厚く、 盛大な祭典を執行し、 献納の品々が多かったと、 隣接する『 洞泉寺記録 』に 記されているのです。 祭神は 宇迦之御魂神 、 伊勢外宮・伏見稲荷大社の主神と同体 。 天智天皇 の白鳳年間に遡り、 寛平稲荷を祈って出陣したという。 明神はたちまち武人と化し、 数多の 白狐を遣い 、 天下は平静となったと…・・ 『大伴真鳥実記』巻八にあるとか。 源義経 も稲荷を深く信仰し、 そのしるしとして、 幼名" 源九郎 "の名を 贈ったという言い伝え。 『 義経千本桜 』は 二代目竹田出雲・ 三好松洛・並木千柳の合作ですが、 このことを知っていたのでしょうね。 千本桜の" 狐忠信 "というのは、 源九郎稲荷の化身 で、 九郎判官義経は信仰し、 しばしば奇異の戦功を挙げたと。 奥州に下られる訣別で、 幼名 源九郎 を贈られたのが 源九郎稲荷と称する所以なのです。 「義経千本桜」 の上演に際し、 俳優の 市川猿之助 さんらが 参拝に訪れられるそうです。 『洞泉寺縁起』にはこんな話も、 1615年(元和元)の大阪夏の陣の戦い、 豊臣方の 大野治房 による 郡山城攻撃が行われた際、城下も焼け、 その中心へと火が迫ってきたのを見た 洞泉寺住職 天誉和尚が 源九郎狐に祈願 したところ、 突然大雨が降り大火を免れたとも。 拝殿前の二匹の狐は宝珠と 巻物をそれぞれくわえており、 「宝珠に触れば金持ちになり、  巻物に触れば賢くなる」 といわれているそうで、 "巻物"に手を触れてきました。 源九郎ぎつねにちなみ、 春の大和郡山お城まつりでは、 白狐面をつけた子ども行列が 練り歩く「 白狐渡御 (とぎょ)」が 行われているそうです。

大和郡山 豊臣秀長を辿る 春岳院

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《豊臣秀長画像》 が伝わるのが、 秀長の菩提寺である 春岳院 。 鎌倉中期に創建されたと伝わる 春岳院は、当初は"東光寺"と 称されたそうです。 1585(天正13) に大和・和泉・紀伊の 三ヶ国の領主として郡山に入城。 入城後は郡山城を豊臣政権の 拠点の一つとして整備した。 1591年病によって逝去、 豊臣秀長の菩提寺 となります。 秀長の戒名は 「 大光院 殿前亜相 春岳 紹栄大居士」 "春岳" の名をいただき"春岳院"に 改められたのです。 ちなみに" 大光院 "は、 京都の大徳寺 にあります。 大光院客殿 に安置されている 《豊臣秀長木像》 は、 秀長三回忌法要に造られたもの。 位牌は春岳院にも祀られています。 《 豊臣秀長画像 》に戻ります。 絹本著色で画幅の右下の 落款によると、 狩野派の絵師・ 梅軒員信 (ばいけんいんしん) の作と 推定されています。  員信が活躍するのは1799年以前、 郡山藩主であった 柳澤保光 が 1788年(天明8)に 秀長二百回忌 、 春岳院で執り行われた際に 新調されたものとの推定です。 キレイに整備された境内ですが、 2026年に向けて整備されたもの。 " 令和の大改修 "の第一期工事、 本堂と庫裡の修繕が 整えられたそうです。 「本堂に隣接する庫裡の天井は、  雨が降るたびに長靴を履いて  傘をささないといけないほど。」 クラウドファンディング を募ったのは、 春岳院 住職の 薮中真弘 さん、 目標額を大きく越えて資金が 集まったそうです。 本堂前にある 七重の石造塔 、 四方の東方に説法印を結んだ 釈迦如来・阿弥陀如来・ 弥勒如来・薬師如来が刻していて、 鎌倉時代中期の建立と伝わります。 1989年に完成した《 秀長公木像 》 奈良教育大の教授であった 小川清彦 氏の手によるもの。 堂内には多くの仏像が安置されていて、 2m超の巨大な薬師如来坐像は圧巻。 本堂工事前の クラウドファンディングのものですが、 今は整理されて安置されておられます。 なかでも 《千手観音》 は、 足利尊氏の念持仏で南北朝の作とか 。 源氏の直系である故の " 源尊氏 "と刻まれていて、 尊氏が兜につけて戦闘に出向いた。 郡...

大和郡山 豊臣秀長を辿る 毘沙門曲輪に立つ城址会館

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毘沙門曲輪に立つ 城址会館 本丸天守台から毘沙門曲輪を望むと、 みえるのが城址会館です。 毘沙門曲輪や常盤曲輪は 本多氏が城主だった以前は 「二ノ曲輪」 と称されていたとか。 玄武曲輪には水堀が設けられ、 煙硝蔵が並んでいたそうです。 厩があったさらに西側の " 麒麟曲輪 "には 徳川綱吉 を 祀ったとされる 御霊屋 が 建てられていました。 城址会館 は1908年(明治41) 、 日露戦争の戦勝を記念して 奈良公園内の現県庁の 南側に建てられた 奈良県最初の県立図書館、 建設当初は 奈良県立戦捷記念図書館 。 背後に煉瓦造りの書庫や木造の 附属屋が接続していたようですが、 本館のみがここ郡山城内に移築、 1968年(昭和43)のことだったそうです。 移築前平面図をみると、 玄関ホールを入ると 右手に受付と閲覧室、 左手に新聞閲覧室・児童閲覧室。 車寄は向唐破風造、本瓦葺。 胴張りをもつ角柱を立て、 虹梁上には東大寺転害門を 模した板蟇股をつけています。 奈良時代から鎌倉時代の 建築意匠が多く採用。 内部には胴張りをもつ トスカナ式の柱 などの西洋意匠、 小屋内は トラス構造 により 補強されています。 設計は旧高市郡教青博物館なども 手がけた 奈良県技師の橋本卯兵衛 。 細長いすり上げ窓 は 本館の特徴ですが、 一部 紐が切れていて 上げ下げできなくなっています。 ボランティアガイドの方のお話だと、 市民会館や教育施設として 活用されてきとか… 1992年には屋根瓦のふき替え。 2006年から昨春までは 不登校児童・生徒向けの 学科指導教室としても使われたとか。 阪神淡路大震災を契機に 耐震基準が厳しくなり、 2階には上がれないそうです。 2階への踊り場にも 白い壁に大きな窓。 当時の内装は 漆喰壁 だったそうです。 左側に ひび割れ がみてとれます。 木部の傷みが激しく、 2階の欄干は一部が抜け落ちたとか。 樋(とい)がつまって 雨漏りも発生。 地震で傾いた屋根は鉄骨で支えられ、 傷んだ垂木には金属の板 がみえる。 地震で屋根の一部が傾くなど、 本格的な修理が避けられない状態。 多額の費用と時間がかかる中、 活用検討の委員会を発足させたが…・ 文化財保存活用係長いわく、 「 保存活用計画が出来るまで  2年はかかり、  改修工事の設計などは...