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大倉集古館をたずねてvol.3 祈りと救いの美 国宝普賢菩薩騎象像

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特別展 「祈りと救いの美 」 、 サブタイトルにある 国宝 《普賢菩薩騎象像》 。 『法華経』の信仰者を守護、 白象に乗り胸前で合掌する姿は 教説に一致しています。 東京都内では、 調布市の深大寺 所蔵の 《銅造 釈迦如来倚像》 と 合わせて2軀しかない 国宝の仏像の一つで、 東京23区内では唯一の 国宝の仏像 です。 女人往生の典拠となる 「普賢菩薩勧発品」 は、 特に女性貴族の信仰を集めました。 台座の蓮華・象・框まで、 造立当初のものである点は貴重。 白象に乗り胸前で合掌 する姿、 なで肩で背をやや丸めた姿勢は、 いわゆる" 定朝様" に共通するもの。 仏師定朝[?~1057]が 平安時代後期に完成した 和様彫刻のことを、 定朝様と呼ばれています。 《阿弥陀如来坐像》 京都・安楽寿院 瞑想するような面貌は、 京都・安楽寿院に通じるとされ、 安楽寿院像の造立 は 1139年(保延5)で、 院政期の都で中心的な役割を 担っていて 円派仏師 の 長円や賢円が推定されています。 《普賢十羅刹女図》  鎌倉時代・14世紀  大倉集古館蔵 六牙の白象に乗る普賢菩薩と 『法華経』の信者を守護する 十羅刹女 (じゅうらせつにょ)が 影向(ようごう)する様を 描いています。 十羅刹女は釈迦の教えに 触れて改心した10人の女性の 羅刹(鬼)とされていて、 十二単をまとう和装美人の姿 で描かれています。 《平家納経 法華経  普賢菩薩勧発品 第二十八(模本)》 田中親美 さんの描いた模本、 普賢菩薩の章で見返絵には、 山景の中の岩窟で、 法華経とを並べた経机、 読誦する僧笏を構える 官人たちが描かれています。  《平家納経 法華経序品第一(模本)》 僧を前に経巻とみられる 巻物を両手で広げ、 熱心に見入っている 貴族女性の姿。 《平家納経 法華経  勧持品 第十三(模本)》 勧持 とは"勧めて持ち続ける"の意。 金色の仏像を前に頭巾を着け 数珠を持ち合掌する尼と、 それに対面する 尼削ぎ姿の女性 …、 女性の法華経信仰の強さを 暗示する場面ともされています。 《平家納経 法華経  薬王菩薩本事品 第二十三(模本)》 十二単姿の女性が、 蓮池をはさんで上空に出現した 如来の白毫から発せられる光を、 その身に受けて振り返る姿。 《平家納経 法華経...

大倉集古館をたずねてvol.2 震災、戦災をくぐりぬけて

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館にはいると出迎えてくれるのが、 《如来立像》 で集古館の 象徴ともいえるものです。 再開館後、最初の事業として 収集されたもの で、 総高3mを超す砂岩製の巨像で、 全体に赤褐色系の彩色が残ります。 頭部に肉髪を表し、螺髪ではなく、 波状の毛筋を刻んでいます。 (公開当時の新聞記事) 東京帝国大学の 関野 貞 博士 によると、 「この石仏こそ現在知られている  石仏中世界最古のもので、  恐らく今より1500年前  慕容垂の後燕時代のものと  推定されたのである。」 中国・北魏王朝末期頃の制作、 光背の正面、側面、背面に 多くの銘文を刻まれています。 北平(現在の北京)来遊中の フィラデルフィア博物館 の ジェーン博士 が買収する 交渉を進めていたところ、 関野博士が 「東洋の絶品を  米国に持ち去られるのは残念」 と、 紹介された 大倉喜七郎 が買取、 大倉集古館の所蔵なったものです。 こちら創立当初の大倉集古館を 描いたものです。 関東大震災直前の写真と符合します。 現在の集古館の玄関前に 出たつ寄木造りの 金剛力士像 、 鎌倉~室町時代のもので、 古い収蔵品目録の一番はじめに 載っている作品だそうです。 罹災後に修理し活用された 収蔵品も少なくありません。 関東大震災で大破したのですが、 帝室技芸員であった 新海竹太郎 氏によって 修理された 石造《獅子》 。 5世紀頃に中国で造られたとされ、 『三国志』曹操の家 に 置かれていたという説もあるとか。 《洞窟の頼朝》前田青邨  1929年 重要文化財 前田青邨が描いた 近代歴史画の代表作品で、 1930年(昭和5)にローマ開催の 日本美術展覧会 に出品されました。 日本画壇を代表する日本画は 168件が出品されたのですが、 大倉喜七郎の援助で実現 。 この《洞窟の頼朝》をはじめとし、 諸名家の力作を所蔵されています。 地下のミュージアムショップの エリアにある 《韋駄天立像》 、 中国 清時代(17-18世紀)に 造られたもの。 《怖畏金剛像》 ふいこんごうぞう 中国・清時代(17~18世紀) 2階にはテラス 《達磨太子坐像》  中国・清時代(17-19世紀) 屋外にも 《五重塔》重要美術品  京幾道利川郡郷校前廃寺址   (現大韓民国)伝来石造  朝鮮・高麗(11世紀) 《龍頭》  中国・明時代 《八卦文鼎...

大倉集古館をたずねて vol.1 大倉喜八郎コレクション

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大倉喜八郎コレクション が 集められた" 大倉集古館 "を はじめて訪問しました。 幕末から昭和に築き上げた、 日本の十五大財閥の一つ大倉財閥。 館前に腰掛ける《 大倉鶴彦翁像 》、 鶴彦とは大倉喜八郎の別称。 幼名は鶴吉、のちに鶴彦と称し、 晩年は鶴翁と呼ばれました。 京都の 祇園閣 の屋根にそびえる 銅柱には鶴が羽を広げています。 創始者の大倉喜八郎は 越後国新発田に生まれ、 江戸での乾物商ののち、 幕末の動乱で銃砲販売 。 明治維新後の1873年に 大倉組商会 を設立し、 西南戦争や日清・日露戦争で 事業を拡大しました。 《大倉邸と大倉美術館》 1913年(大正2)頃の外観で、 美術館は3号館まであったそうで、 高台にあって東京湾をのぞめたとか。 大倉喜八郎が生きておられた時代は、 邸内の一画にこの扁額「 博物館 」が、 母屋に接続した建物に 掲げられていたそうです。 自邸を訪れる賓客たちを もてなしていたと伝えられます。 扁額は 徳川慶喜 の筆、 往事を知る貴重な資料の一つです。 関東大震災で建物と 約3300点の収蔵品を焼失… 火災の惨状を後世に伝え、 災害を研究する資料とするため 、 喜八郎は被災した煉瓦造りの 建物をしばらく保存していました。 大倉集古館 の扁額は 中華民国大統領をつとめた 徐世昌※ の揮毫だそうです。 第二次世界大戦後の GHQによる財閥解体で解散。 帝国ホテル や サッポロビール 、 東京経済大学 前身の 大倉商業学校の設立など、 多方面の活躍に尽力されました。 1928年(大正3)に再開館したのが、 伊東忠太 設計による 耐震耐火の壮麗な中国風建物。 凝灰岩に施された 親柱のレリーフ。 階段の柱頭飾りの 獅子 たち。 少しづつ意匠がことなっています。 2階天井には 龍 の姿 斗栱 (ときょう)と呼ばれる 軒を支える柱の上部、 吻 (ふん)とよばれる幻獣が デザインされています。 京都の 西本願寺伝道院の珍獣 … 伊東忠太さんの建築には、 多くの幻獣 がみられます。 東京・築地本願寺 の 羽の生えた獅子。 屋根の "正吻"の頭は獅子、足は龍、 尻尾は水流 を表わし、 先端は巴形になててます。 大倉集古館の傍吻の振舞などは、 まさに" 気をやる "を表現している とされてい...