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大和郡山 豊臣秀長を辿る 春岳院

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《豊臣秀長画像》 が伝わるのが、 秀長の菩提寺である 春岳院 。 鎌倉中期に創建されたと伝わる 春岳院は、当初は"東光寺"と 称されたそうです。 1585(天正13) に大和・和泉・紀伊の 三ヶ国の領主として郡山に入城。 入城後は郡山城を豊臣政権の 拠点の一つとして整備した。 1591年病によって逝去、 豊臣秀長の菩提寺 となります。 秀長の戒名は 「 大光院 殿前亜相 春岳 紹栄大居士」 "春岳" の名をいただき"春岳院"に 改められたのです。 ちなみに" 大光院 "は、 京都の大徳寺 にあります。 大光院客殿 に安置されている 《豊臣秀長木像》 は、 秀長三回忌法要に造られたもの。 位牌は春岳院にも祀られています。 《 豊臣秀長画像 》に戻ります。 絹本著色で画幅の右下の 落款によると、 狩野派の絵師・ 梅軒員信 (ばいけんいんしん) の作と 推定されています。  員信が活躍するのは1799年以前、 郡山藩主であった 柳澤保光 が 1788年(天明8)に 秀長二百回忌 、 春岳院で執り行われた際に 新調されたものとの推定です。 キレイに整備された境内ですが、 2026年に向けて整備されたもの。 " 令和の大改修 "の第一期工事、 本堂と庫裡の修繕が 整えられたそうです。 「本堂に隣接する庫裡の天井は、  雨が降るたびに長靴を履いて  傘をささないといけないほど。」 クラウドファンディング を募ったのは、 春岳院 住職の 薮中真弘 さん、 目標額を大きく越えて資金が 集まったそうです。 本堂前にある 七重の石造塔 、 四方の東方に説法印を結んだ 釈迦如来・阿弥陀如来・ 弥勒如来・薬師如来が刻していて、 鎌倉時代中期の建立と伝わります。 1989年に完成した《 秀長公木像 》 奈良教育大の教授であった 小川清彦 氏の手によるもの。 堂内には多くの仏像が安置されていて、 2m超の巨大な薬師如来坐像は圧巻。 本堂工事前の クラウドファンディングのものですが、 今は整理されて安置されておられます。 なかでも 《千手観音》 は、 足利尊氏の念持仏で南北朝の作とか 。 源氏の直系である故の " 源尊氏 "と刻まれていて、 尊氏が兜につけて戦闘に出向いた。 郡...

大和郡山 豊臣秀長を辿る 毘沙門曲輪に立つ城址会館

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毘沙門曲輪に立つ 城址会館 本丸天守台から毘沙門曲輪を望むと、 みえるのが城址会館です。 毘沙門曲輪や常盤曲輪は 本多氏が城主だった以前は 「二ノ曲輪」 と称されていたとか。 玄武曲輪には水堀が設けられ、 煙硝蔵が並んでいたそうです。 厩があったさらに西側の " 麒麟曲輪 "には 徳川綱吉 を 祀ったとされる 御霊屋 が 建てられていました。 城址会館 は1908年(明治41) 、 日露戦争の戦勝を記念して 奈良公園内の現県庁の 南側に建てられた 奈良県最初の県立図書館、 建設当初は 奈良県立戦捷記念図書館 。 背後に煉瓦造りの書庫や木造の 附属屋が接続していたようですが、 本館のみがここ郡山城内に移築、 1968年(昭和43)のことだったそうです。 移築前平面図をみると、 玄関ホールを入ると 右手に受付と閲覧室、 左手に新聞閲覧室・児童閲覧室。 車寄は向唐破風造、本瓦葺。 胴張りをもつ角柱を立て、 虹梁上には東大寺転害門を 模した板蟇股をつけています。 奈良時代から鎌倉時代の 建築意匠が多く採用。 内部には胴張りをもつ トスカナ式の柱 などの西洋意匠、 小屋内は トラス構造 により 補強されています。 設計は旧高市郡教青博物館なども 手がけた 奈良県技師の橋本卯兵衛 。 細長いすり上げ窓 は 本館の特徴ですが、 一部 紐が切れていて 上げ下げできなくなっています。 ボランティアガイドの方のお話だと、 市民会館や教育施設として 活用されてきとか… 1992年には屋根瓦のふき替え。 2006年から昨春までは 不登校児童・生徒向けの 学科指導教室としても使われたとか。 阪神淡路大震災を契機に 耐震基準が厳しくなり、 2階には上がれないそうです。 2階への踊り場にも 白い壁に大きな窓。 当時の内装は 漆喰壁 だったそうです。 左側に ひび割れ がみてとれます。 木部の傷みが激しく、 2階の欄干は一部が抜け落ちたとか。 樋(とい)がつまって 雨漏りも発生。 地震で傾いた屋根は鉄骨で支えられ、 傷んだ垂木には金属の板 がみえる。 地震で屋根の一部が傾くなど、 本格的な修理が避けられない状態。 多額の費用と時間がかかる中、 活用検討の委員会を発足させたが…・ 文化財保存活用係長いわく、 「 保存活用計画が出来るまで  2年はかかり、  改修工事の設計などは...

大和郡山 豊臣秀長を辿る 豊臣郡山城の前後

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郡山城跡公園にある鳥居。 柳澤神社 のもので、 堀を挟んで" 竹林橋跡 "。 いまは橋はなく堀も左右が 堰き止められています。 鳥居の向かいは 県立郡山高校 冠山学舎 、 ちょうど文化祭が行なわていました。 高校があるところも何度か、 発掘の対象になったようです。 江戸期後半は二ノ丸にあたります。 城郭の中心部を南東上空から 「郡山城の標1」 より大和郡山市発行 天正年間に織田信長の命を受けた 筒井順慶 により築城が始められ、 1585(天正13)年に豊臣秀長が入城、 豊臣政権の畿内統治の拠点として 大規模に整備されました。 《 絹本著色 筒井順慶像 》   奈良市・伝香寺蔵 筒井氏は1385年(至徳2)に 文献上に現れ、 興福寺衆徒の棟梁を務める、 大和でも有力な武士でした。 1549年(天文18)に 家督を継いだ 順慶 の時、 河内の 三好長慶 と対立、 劣勢となり筒井城を追われましたが、 織田信長の後ろ盾を得て、 三好家家臣の 松永久秀 を降伏させ、 その後自害に追い込みました。 こちら大河ドラマ館にあった、 紛い物の平蜘蛛です。 大和統治を命じられて順慶は、 筒井城を含むすべての城を破城、 郡山城に移りました。 しかし、 順慶が築いた郡山城の 遺構は確認されていません 。 信長死後は豊臣秀吉に従い、 大和統治を続けましたが、 天正12年(1584) に病で 亡くなりました。 竹林門跡 本丸には柳澤神社があります。 五代将軍 徳川綱吉 の幕臣、 柳澤美濃守吉保 が御祭神。 1724年(享保9) 柳澤吉里 が郡山に入部、 以降 明治維新まで柳澤家が この地を統治がしました。 柳澤吉保は吉里の父にあたります。 大和郡山といえば金魚 。 1724年 郡山藩主となった 柳澤吉里が甲斐の国から 持ち込んだのが始まり とか。 幕末の頃になると、藩士の副業として、 明治維新後は、 職禄を失った藩士や農家の副業として 盛んに行われるようになりました。 もっともこれには最後の大和郡山藩主 柳澤保申 のおしみない援助が あったことが大きいと言われています。 柳澤神社の後方には 天守台があります。 公園内 柳沢文庫では企画展 「 後世に受け継がれる郡山城と城下町 -秀長城主時代からの変遷- 」 「和州郡山城郭絵図」 (正保年間)  国立公文書館・内閣文庫 蔵 ...