ヨコスカ〜猿島要塞へ


横須賀沖にある無人島"猿島"
東京湾に浮かぶ唯一の自然島へ、
東西約200m、南北約450m、
周囲約1. 6km、
横須賀から1.7km先に浮かぶ。

京急線横須賀中央駅で下車…
徒歩15分のところに、
猿島とを結ぶ定期船の
発着所「三笠桟橋」があります。

三笠桟橋から船に乗ると片道10分程度。

ターミナル2階で写真展

タイ出身の写真家の
Kanyada Phatanさんショットたち。

スタジオジブリ発行の月刊小冊子
『熱風』で毎月一枚の写真と詩を
寄稿されているそうです。



始発は9時30分で間に合うように、
横須賀中央駅に着けるように
早起きしたのですが…

第1便は満員…
臨時便を出してくれました。
定期便は1時間おきの運行です。



岩礁の先は三浦半島

なぜ"猿島"?
鎌倉時代からの伝説、
安房国に渡ろうとした日蓮
荒のために難破しそうになり、
その際に白猿に導かれて
たどり着いたことに因みます。

断崖に囲まれている島なのだ、
戦国期の北条水軍の歴史を紐解くと、
1577年(天正5)6月に"猿島水軍"との
記録がみえるので、
"海賊の島"だったのでしょう。

バーベキューテラスの前に"海軍港"
「右江百八十七・・」などの数字は、
杭杭までの方向と距離と方向を
示しているのです。
1883年(明治16)に現在の石柱に…
鮮やかな青色のペンキは
後年にわかりやすくしたものとか。

坂を登るとネズミ色の煙突

1895年(明治28)に完成した
蒸気機関による発電所
発電した電気はサーチライトに
使われていたろか…
煙突もレンガ積みなのですが、
モルタルが塗られています。
「赤いレンガは空から見て目立つので
 モフラージュに塗った」
とか…

切通しに入ると…ジブリ感

かなり深く掘り込まれています。

猿島要害が現れます

島の要塞化は、一般人の立ち入りを
禁止して1881年より始められました。
明治に入ると陸軍は、
首都防衛のため東京湾一帯に
"東京湾要塞"を築造することに。



島の東側を切り開き、
壁面を石積みにし切通し"幹道"を造成。



切通しの中程の石段
ここを上がると大砲が
備えられています。
現在は砲台跡の見学できません…
1884年から1945年の敗戦まで、
多くの兵士たちに踏みしめられ、
およそ100年余の時を刻んでいます


太平洋戦争末期、
深刻な戦闘要員の不足に陥り、
徴兵制を大きく拡大、
満17歳から45歳まで、
ごっそり招集の対象としました。
当時の日本人の平均年齢は
50歳でしたので国民皆兵、
根こそぎ動員
だったのです。

切通しを進んで行くと
左手に変な形の煉瓦の遺構。

厠のあと。
くぼみが大で、サイドが小とか…

左手に小さなアーチ…
猿島には男子トイレしか
ありませんでした
が、
戦局が厳しくなると司令部の通信隊員に
軍属として女性が任務に付いていました。
ちなみに猿島は全て男子兵のみ…

木道のど真ん中に
四角いコンクリートがいくつか…
これは雨量が多いと開けられるもの。

切通しの東側に弾薬庫



そして大トンネルへ
延長約90mで1884年(明治17)完成。
工事は軍直轄で工兵が担当、
職人や石工も雇ったのですが、
身元を厳しく調べられたそうです。

トンネルのレンガの積み方は、
基本的に"フランス積み"。
フランス北部からオランダの
フランドル地方が発祥の積み方で、
正確には"フランドル積み"。
明治初期に日本に流行しましたが、
現存は富岡製糸所、長崎のドックなど、
全国で4か所だけとされています。



一般的に煉瓦といえば赤…
でもいくつかは黒いのから
白っぽいのまで混然としていて、
モザイク芸術のよう

名古屋、西尾藩や刈谷藩など
廃藩置県で禄を失った侍、
いわゆる浪士の失業対策として、
煉瓦やセメントを製造する"東洋組"と
呼ばれる組織を作りました。
"士族煉瓦"と呼ばれましたレンガは、
焼成技術が未熟だったのか
窯の完成度が低かったのか、
高温で焼き過ぎると黒く硬くなり、
低温だと白っぽく柔らかいもの
に。

砲台地下施設には“地下本部”、
関東大震災で横須賀市内はもちろん、
島の大砲も壊滅的被害を受けましたが、
トンネルはびくともしませんでした。

西側壁には地下室が付属、
地下2階構造で12室あり、
指揮所や医務室、弾薬元庫など、
要塞猿島の生命線でした。

トンネルを抜けると勾配、
トンネルに傾斜が付いています。


周囲を高い土手や石垣に囲まれ、
ちょっと異次元的な不思議な
雰囲気の空間に出ます。

三叉路は緑が多く雰囲気から
「ラピュタの城」と呼ばれて、
コスプレ撮影の人気スポットとかで、
寒い時でも若い女性などが
露出の多いコスチューム姿…
この日は見かけませんでした。

以前はいろんなところに引っかき傷や
落書きがあったそうですが…
真ん中はお猿さんのようにも見えます。



地下壕は砲側弾薬庫とも呼ばれ、
壕の上方に据えられていた
大砲の弾丸を一時保管していました。
内部は前室と後室の二つに
厚い壁で仕切られているとか…
片側の壁にふしぎな穴…
弾薬庫にロウソクを持ち込むのは
危険なのでここにランプを設置し、
ガラスがはめ込んであったのです。
窓の向こう側の通路から
内部を観察した"点灯窓"

海面から40mの島の頂上の展望広場、
昭和海軍の防空指揮所

軍の施設にしては珍しく
遊び心を感じさせるデザインが新鮮。

実はマニアにはとても有名なスポット。
仮面ライダーの敵役ショッカーの基地
1971年に始まったロケ地は、
ここ猿島だったのです。

初代のライダーは藤岡弘さん、
ある時代は自由に利用できたとか、
松田優作さんのアクション映画も
舞台となり登場しています。

今はスマホたちへの発信所。

砲台跡
砲を固定したボルトの名残が
円形に残っています
が、
中心から外周に向かって細い溝…
猿島を調査た人によると、
「溝には鉄製の排水管が埋まっていた。
 鉄くずとして売るために
 何者かが掘り出した!」

壊滅的な被害を受けた日本ですが、
1950年に始まった朝鮮戦争の
軍需景気のおかげ…
高度成長は平和日本の象徴、
というより戦争の副産物でした。

金属が高騰し記念艦三笠 砲塔や
煙突などの大量の鉄が、
船の管理を任されていた業者が
鉄くずとして売り飛ばされました。
猿島の“鉄管盗掘”は誰か?
ただ三笠も猿島も同じ業者でした。

これは大丈夫だったのか?



敵艦船の東京湾侵入を防ぐための
東京湾要塞でしたが、
昭和に入ってからの本土防衛は
対航空機に移ったことで、
1936年(昭和11)から島に
8センチ高角砲4門が設置されました。
突貫工事と資材不足、
貝殻なども混じるコンクリート


戦闘の際はサイドに横檣、
正面に胸檣として、
背丈くらいの高さに土嚢を
積み上げて即席防御壁を作って
迎撃態勢をとったようですが…
防禦壁を作っても頭上の防御はなく、
1945年7月にバラバラ降る爆弾

なすべくもなく。

数か月前の東京や川崎の大空襲は、
夜空を焦がす炎が横須賀からも
見えたとか…戦局の厳しさから
避けらることができませんでした。



江戸幕府は江戸湾の防備のため、
東京湾を望む地に台場を構築。
川越藩に防備の任に当たらせたのが、
1847年のことだそうです。





帰りは定期便で

NEW KUROFUNEだとか

名残惜しつつ



乗船券と猿島入園料がセットで
1,850円です。

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