京の冬の旅2023 大徳寺 三玄院


大徳寺境内本坊西にある塔頭、
三玄院の「八方睨みの虎」…
初公開であり大徳寺茶会
前日前々日と催されたこともあり。

かなりの列ができておりました…

JRの立ち往生とか、
一面銀世界へと
もたらした京都の大雪…
固く屋根瓦に居座っていました。
氷の塊となってずれ落ちる
ボランティアの方が
かなり気を遣われておられました。

"拝観謝絶"とあり…檀家の方以外は、
ほとんど立ち入ったことがないとか。
創建は浅野幸長、石田三成、森忠政ら、
幸長と三成は豊臣政権の五奉行
忠政は信長とともに本能寺で最期、
かの"森蘭丸"の弟にあたる武将。

お世辞にも蘭丸の弟なのか?
津山城跡の忠政像は暗い。
秀吉死後は家康に仕えた森忠政、
関ヶ原の戦後は美作津山に移封
時流を見る目があったとされるが、
3代家光上洛の奉行にありながら、
"桃を食べたところ"京で急死
葬地はここ三玄院で行われた。

門前には"石田三成公御墓地"、
近江で捕らえられ
六条河原で晒された…
遺骸を引き取ったのは
大徳寺111世の春屋宗園
三玄院の開祖でもあり埋葬。
江東院正岫因公大禅定院」の
法名は春屋宗園が付したもの。

1908(明治41)年10月の刻…
近代の復興のあとのもの。
妙心寺 壽聖院 も墓所でした。

受付前に一枚…撮影不可のため、
庭園、襖絵の写真はパンフやHPより。

本堂となる方丈の西に「昨雲庭」。
昨雲とは、迷いのあとも留めない
人間本来の清浄な姿を表す
という。
白砂に立石、苔地、植え込みで
"七五三"、"心字"を表すとも。

大徳寺本山の仏殿、法堂、方丈、
参道に植えられている松並木…
こららを借景に取り入れる。

左手奥 深山の滝に見立てた
滝石には水割れの面が入るのは、
およそ6トンの珪灰石
遠山の水の流れが谷を経て、
島間を抜けやがて大海へ。

釋門 瑚璉 祖苑 棟梁」なのか?
方丈に掲げられた扁額。
解説文があったがメモしていない…
"瑚璉"とは高貴な人格、人材とか。

本堂には墨筆「八方睨みの虎」…
別名「波に虎図」とも。
右手は "龍図" とされるが…
龍の動きに早さがありすぎて、
頭部を描かず逆巻く波と雲、
龍の鱗が溜し込み技法でとあるが、
解説がなければ龍とは気づかない。

三玄院のパンフに載るのはコレ。
中国の南宋末、元初の禅僧
牧渓筆の虎がお手本とか…
"八方睨み"が隈なく視線を送る

四季の図として「花鳥図」8面、
「雪景山水図」6面、「芦雁図」8面、
いずれも原在中の筆によるもの。
京都の酒造家に生まれた原在中、
石田幽汀、円山応挙に付く。
山本探淵に仏画を学んだ人。
元・明の古画は独学、
狩野派、円山派、阿弥派、
土佐派、琳派
などの技法…
マルチな人だったそうです。

もうひとつが「猿猴図」5面、
見覚えがあるかも知れませんが、
おそらく初見で 原在中の筆

《竹林猿猴図屏風》長谷川等伯
 相国寺


「猿猴図」といえば長谷川等伯ですが…
"三玄院方丈の襖絵を描きたい"…
等伯が住職 春屋宗園に申し出ると、
方丈は選仏の場であり、
風雅の席ではないとして、
禅寺に絵は不要
と頑として
受け付けなかったとか。
等伯は熱望していたのでしょうね、
住職の留守中に上がり込み、
一気に襖絵を描いた
という。

《山水図襖》長谷川等伯

その絵はいまは 圓徳院 方丈にある
山水図襖」32面…
雲母で摺られた太閤桐
散らした唐紙に描かれています。
素朴な風景も 桐花紋を牡丹雪と
見立てたのは "あとづけ"
(笑)
雄大な冬景色へと昇華を
遂げているのだから…

《大宝円鑑国師像》
   長谷川等伯


実は三玄院には等伯筆の
絵が遺されています。
"春屋宗園"の肖像画
こちらが宗佐本で、
同年作のほぼ同じ構図の
宗仲本あるそうです。

内部非公開でしたが
方丈の北西に、
古田織部作の茶室
篁庵 (こうあん)」。

窓は突上窓などが8つ開き
「八窓の茶室」とも呼ばれた。
眼2、耳2、鼻孔2、口1、
心1の「窓」を表現したとか…

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