太閤秀吉を辿る vol.2 神号「豊国大明神」


京都の豊国神社の扁額、
「豊国大明神」とあります。
後陽成天皇の御宸筆の
勅額が掲げられたのは、
1607年(慶長12)8月のこと。

「豊国大明神」という神号、
実は別の神号望んでいたのは?
そんなエピソードが残っています。
伊達政宗の従弟 伊達成実が記した
『伊達日記』に…
「秀吉公、
 新八幡と祝い申すべき由
 御遺言に候へども、
 勅許なきによって
 豊国丿明神と祝い申し候」。

1598年10月3日のイエズス会宣教師
フランシスコ・パシオの書簡にも、
「最後に太閤様は、自らの名を
 後世に伝えることを望み、
 まるでゼウスのように
 崇めることを希望して、
 遺体を焼却することなく、
 入念にしつらえた柩に収め、
 それを城内の遊園地に
 安置するようにと命じました。
 こうして太閤様は、
 以後神の列に加えられ、
 シンハチマン、すなわち、
 新八幡と称されることを
 望みました。


八幡神は単なる軍神では
ありませんでした…
神功皇后と応神天皇の母子神、
あるいは応神天皇と考えられ、
天照大御神に次ぐ
"第二の皇祖神”ともされます。

大阪城天守閣に遺る
豊臣秀頼筆の
「豊国大明神」神号。
この世を去った秀吉に
この神号が宣下されたのは、
1599年4月のこと。
秀吉の望んだ"新八幡"とは、
ならなかったのは、
"朝鮮出兵"が理由かと。

《伝 淀殿画像》
 奈良県立美術館蔵

秀吉と側室 淀殿との
第一子 鶴丸が急逝
愛児を喪った悲しみを
紛らわせるための"暴挙"、
耄碌(もうろく)した秀吉の
仕出かした"愚行"とも。

ただ朝鮮出兵は元々は信長が
意識していたことだったようで、
安土城を築城しているころには、
酒宴で「将来は明国に侵攻する」と
口にしたともいわれています。
日本国内でさえ平定されておらず、
「話半分」の話だったのを、
秀吉はなし得ようとした、
「大陸制服プラン」の足がかりが
朝鮮出兵だったのだです。

《豊臣秀吉像》醍醐寺 

天正20年5月に秀吉が
関白秀次に宛てた朱印状
そこには大陸制覇後の、
計画が記されていました。
後陽成天皇を北京に移し、
 中国の皇帝とする。
 北京周辺10ヶ国を進上。
秀次は中国の関白に
・日本の関白は秀次の弟
 豊臣秀保か、宇喜多秀家に。
・日本帝位は後陽成天皇の子の
 良仁親王か、天皇の弟 智仁親王。
・朝鮮については秀次の弟
 秀勝か宇喜多秀家に。

《豊臣秀吉像》
 高台寺蔵 乙本


日本を唯一無二の「神国」とした
戦前の日本においては、
天皇を北京に遷座する…
そんな発想は絶対に
出てきませんね。

《豊臣秀吉像》逸翁美術館蔵

狩野光信が追慕像とされ、
画稿は狩野山楽が秀吉の
面前で描いたとされていて、
衣冠束帯で描かれています。

《豊臣秀吉像》部分 慶長5年(1600)賛 
 大阪市立美術館蔵(古賀勝男氏寄贈)

東福寺の惟杏永哲が
「豊国大明神尊像」
とあります。
逸翁美術館と比べて
違いが分かりますか?
秀吉像の定形は唐冠なのです。
家康も信長も日本伝統の
垂纓(すいえん)と呼ばれる
冠を被っていて秀吉は異型です。

《豊臣秀吉像》部分 17世紀
 京都・禅林寺蔵


例外はあるものの、
像主 秀吉神殿の中に座し
唐冠を被る姿
描かれているのです。
中国の皇帝を目指したのか…

《豊臣秀吉像》伝 狩野山楽筆
 17世紀 京都・禅林寺蔵


豊國大明神」の神号は、
豊臣秀頼の自筆。
信長・秀吉に近侍した
太田牛一がまとめた
『豊国大明神臨時御祭礼記録』
によると、
わが国の本来の名は
「豊葦原中津国」というが、
秀吉はこの国の支配者、
略して「豊国」としたのだとか。


けれど…そこにはもちろん
「豊臣家」の支配する「国」
という意味も込められていた、
そうに違いないのです。

特別展「豊臣の美術」
 大阪市立美術館
 2021.5.16まで 月曜休館

※このブログは「豊臣の美術」図録解説
特論「豊臣秀吉の神格化と豊臣秀吉画像」
 北川央(大阪城天守閣館長)著 を
 参考にさせてもらいました。

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