堺の街並みを往く〜利休と晶子との差170センチ?

3月20日オープンの
さかい利晶の杜”にも、
寄ってきましたよ!!

建物の裏手にある
千利休屋敷跡」から見ると、
本当にリッパと言うしかありません。
有料ゾーンの
千利休茶の湯館与謝野晶子記念館
そしてオープンエリアの
観光案内展示室で構成されています。
梅の花 さんや
ドライブスルー・スタバがあって、
道の駅みたいな感じなのかなぁ〜
なんて思えました。

屋敷跡に残る「椿の井戸」は、
椿の炭を底に沈められたことに因むもの。
井戸屋形は利休ゆかりの
大徳寺山門の古部材より建てられたもの。


そして…
与謝野晶子の生家もほど近くに。
菓子商 駿河屋の三女として、

甲斐町に生まれてから、
鉄幹さんに出会って
家を出るまで堺で過ごしました。

“利晶の杜”の与謝野晶子記念館に
原寸大復元された駿河屋の店先。

1901年(明治34)出版の「みだれ髪」は、
鉄幹さんへのあふれる愛と
青春のみずみずしさが今でも新鮮。

こちらは“利晶の杜”にあった文学碑。
1933年(昭和8年)に与謝野夫妻が
互いの文学的資質を誉め讃えたものです。
二人の仲睦まじく、
尊敬し合っていた姿が偲ばれます。
「海こひし 潮の遠鳴りかぞへつつ
 少女となりし父母の家」の歌碑。

実は晶子が通った堺女学校への道は、
現在の地表から30cm下の道
徳川家康が京で信長と会見した後、
本能寺の変を聞きいわゆる伊賀越にて、
大急ぎで三河に逃れたときは地下2m

ザビエル公園にある
「聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅(ほうたく)」の碑

それより遡って、
サンフランシスコ・ザビエル
キリスト教の布教のため、
堺の地を踏んだときは地下2m20cm
さらに一休さんが街を闊歩したころの地表は、
地下3mのところに位置するのだそうです。
なぜそんなことが分かるかといえば、
大坂夏の陣では焼き討ちに遭い、
自治都市堺が灰燼化したときの層。
キリスト教宣教師も記録をとどめる
天正の大火」の跡。
利休はこの下の地層に生きた。
第二次世界大戦末期の大空襲
焼け野原になったときの焦土層の下、
晶子さんと鉄幹さんが歩いていたとこ。

このブログは
ツール・ド・堺「堺意外史」Vol.24
晶子は30cm、家康は2m、
  一休は3m現地表下を歩いていた
を参考にしました。

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