京の冬の旅2023 妙心寺 玉鳳院


"京の冬の旅" 今年も始まってます。
初日は妙心寺の龍を観に…

JR 花園駅
京福北野線 妙心寺駅もありますが、
三条京阪より京阪バスにて候。
妙心寺道には大きな看板が立つ。

境内が広すぎて…
また法堂と大庫裏などは、
"京の冬の旅2023 +"として
お伝えしたいと思います。

妙心寺の特別公開は"玉鳳院"と"壽聖院"…

まずは法堂より右手の"玉鳳院"より。

玉鳳院の特別公開は、2016年、
2020年に行われたようですが、
通常非公開で2回とも撮影禁止とか…
今回は寝殿風の方丈の檜皮葺屋根、
修復工事が行なわれるなかでの公開


方丈南前の"向唐門"は、江戸前期
寛文年間(1661-1673)の建立、
大坂の淀屋辰五郎の寄進とか…
修復資材が出入りされていました。

奥を伺うと方丈の正面には足場が…

裏手"大心院"の前庭から臨むと、
単層入母屋造の檜皮葺、
大がかりな修復の足場。

【妙心寺HPより】
現在の"方丈"は、
江戸前期 1656年に再建されたもの、
仙宮御所を模しており、
正面扁額は後花園天皇の宸筆。

"妙心寺はじまりの龍"がコレ!
狩野永真が手がけたと伝わる「竜図」。

狩野永真は宗家 貞信の早世により、
養子となって宗家を継いだ人、
永真は号で安信と名乗っていた。
兄 探幽の画法を踏襲するが、
一門の重鎮によって決められた立場、
苦難の日々が重ねられたとも。

こちら"麒麟図"…
部屋ごとに異なる画題に応じた力作、
狩野安信さん"なかなかやりますやん"
そんな印象を受けました。

襖絵をみせるために開け放たず…
下間一の間、下間二の間、仏間、
上段の間の上間がそれぞれあり、
その奥に拝所と"昭堂"の間取り。
中央奥の昭堂には、
花園法皇の法体姿の木像

花山天皇の玉座 "拈花室"、
仏教語「拈華微笑」に因む。
言葉を使わずに、
心から心へ伝えることの意、
"拈"は指先でひねることで、
"ねんげ-みしょう"
と読みます。
ただ…ちょっとビックリしたのは、
"徳川家康"の位牌がなんと!
玉座に置かれていたのです。
"どうする"
やなくて?どうしたん?。

方丈と開山堂を結ぶ渡廊北側、
"風水泉の庭"には桃山初期の
豪快な石組、滝組、蓬莱石、
開山 無相大師は松の傍らで
立ったまま亡くなられたとか

井桁が後世に造られ、
墓標の意味も合わせるという。
四脚門の"平唐門"は
開山堂南前に南面して建つ。
1409年 後小松天皇により
御所の南門が移されたものでm
移築当初は勅使門として…
1610年に現在地に移されたとか。
応仁・文明の乱でも
焼失を免れた唯一の建物とか。

開山堂 "微笑庵" は、
東福寺より1537年に移築され、
1538年に建立されたもの。
小仏壇天井に円山応挙筆
鳳凰の絵が描かれています。
拈華微笑”のうち微笑は、
互いに言葉を使わずに通じ、
理解しあう境地、以心伝心
とも。

正法眼蔵、涅槃妙心、
 実相無相、微笑の法門あり、
 いま摩訶迦葉に付属す」
  と語った釈迦。
山号を"正法山"とした所以、
そして"妙心"とは、
喜怒哀楽の波に揺り動かされない、
根源的本質的な心
であるとか。

玉鳳院の境内に戻ります。
渡廊の北の"祥雲院殿霊屋"、
棄君堂とも呼ばれるのは、
1591年に没した鶴松こと棄丸、
秀吉の命により建立されたもの。
棄丸の法名は"祥雲院殿玉巌公神童"、
彩色の棄丸木像が安置されていました。

開山堂の東北隅築山の下に
五輪石塔が並んで立っています。
武田信玄、武田勝頼、
武田信勝、武田信豊
は、
信玄は関山派に篤く
帰依していたことから、
妙心寺に分骨され、
供養塔が建てられたもの。

ここでも驚きがありました…
甲斐武田氏を滅亡させた
織田信長の墓が立ち、
嫡男信忠が並ぶ…
ただこれこそが
"妙心寺"なのでしょうね。

第57回 京の冬の旅
 妙心寺 玉鳳院

 2023.1.7 - 3.19

※境内及び内部の写真はHPより

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