京の冬の旅2022 東寺 五重塔初重


京都のランドーマークといえば、
東寺の五重塔だと思うのです。
新幹線で東京から大阪へ戻ると、
京都駅を過ぎると…
いよいよ旅も終わりだなと、
荷物をまとめ始めるのは、
車窓に東寺五重塔が見えたとき

東寺の創建は、平安京造営から
2年後の796年(延暦15)
のこと。
造営当初の平安京では、
東寺と西寺の二寺しか
建造が許されなかった
のです。

《弘法大師像》東寺

西寺は1233年(天福元)に焼失、
再建されることなく滅びましたが、
東寺は823年(弘仁14)に嵯峨天皇
空海に下賜された後、
国家鎮護・真言密教の
根本道場として発展
しました。

空海が東寺を授かったとき、
形を成していたのは
"金堂"だけだった
そうです。
主要堂塔の落慶に全力を注ぎますが、
五重塔の完成は没後半世紀を過ぎ、
883年(元慶7)に至りました。

焼失は落雷などで4回
現在の塔は家光の寄進
1644年(寛永21)のことで、
仏塔では日本一の高さは
創建時もほぼ同等の高さ
とか…

高みへの志向性は官寺としての
権威からだけでないそうで…

仏塔の起源は、古代インドの
ストゥーパと言われていますが、
漢字表記されると"卒塔婆"のこと。
日本的なアレンジが加えられ、
五重塔の誕生につながったのです。

仏舎利としてのストゥーパ、
五重塔の内部は大日如来に
見立てた中央心柱の周囲に、
金剛界四仏像と八大菩薩像が配され、
四天柱に金剛界曼荼羅諸尊

初層内部は柱や長押を極彩色文様、
埋め尽くされた空間は荘厳…
阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就
の四如来と八大菩薩像が
心柱を取り囲んでいます。

阿閦如来の梵語名アクショーブヤ
の音訳であると言われており、
鏡のように全てを映し出す意
顕教における薬師如来と同じ、
東方に位置することから
同尊とするとも言われます。
左が弥勒菩薩、右に金剛蔵菩薩

南方は宝生如来
左に除蓋障菩薩、右に虚空蔵菩薩
聞き慣れない"除蓋障菩薩"、
"じょがいしょう"と詠むのですが、
胎蔵界の上位上方に配させる主尊、
「除蓋障とは般若の働きを示すに
 内なる如意宝珠の徳を表にして
 人間本性の究極の存在を
 示そうとしたもの
」※
関西学院大学の八田幸雄さんの
専門的な解説はこうありますが…
人々の苦のもとである煩悩や執見、
それを取り除かれる菩薩
なんだそうです。

西方には阿弥陀如来
左脇侍が文殊菩薩に、
右脇侍は観音菩薩

北方は不空成就如来
左に普賢菩薩、右に地蔵菩薩

配置をこのようになっているのです。

そして四隅の八面は8人の高僧の姿、
"真言八祖像"が描かれています。
醍醐寺五重塔と異なり、
弘法大師も鮮明な御姿です。
江戸寛永期のものですからね…

各面を見させてもらいました。



屋根から突き出ている"相輪"、
露盤、伏鉢、受花、九輪、水煙、
竜車、宝珠の7つの装飾物

付いているそうで、
インドの仏塔 ストゥーパの上に
重ねられた傘の名残りと言われ、
他の五重塔には見られない
歴史的特徴を持っています。

心柱は合計三本の木を
継ぎ足して作られているのですが、
相輪の下と五階部分の屋根とが
接合されているだけ??
なぜこのような構造なのか?
時間の経過とともに木材は、
収縮し塔が歪んでしまいます。
全ての階で接続されていれば、
塔全体が歪むのです。
東寺の五重塔も例外でなく、
複雑に構成される各階は
大きく収縮しました。
1644年に建てられたのですが、
その齟齬が看過できなくなって、
心柱を約50センチほど切り、
辻褄を合わせました
1692年のこと。

須弥壇の北側からの痕跡を
みることができました。
"京の冬の旅2022"公式ガイドより。

北にある瓢箪池にその姿を写す…

五重塔はその用材を伏見の
稲荷山から伐りだしたそうで、
その機に淳和天皇が病気になったと
伝えられこともあって、
秦氏の私社だっ稲荷大神に
従五位下を神階に授けた
とか。

東寺五重塔はランドーマークとして
慕われ続けてきましたが、
平安京遷都のものでなく、
弘法大師の生きた時代の
ものでもありません。
ただ"焼失"を繰り返しても、
再び立ち上げる人々の気概。
そして初重の仏の世界には、
密教曼荼羅が受け継がれています。


あのスカイツリーも塔の構造は、
基本的に京都の五重塔たち
大いに参考にしているのだ、
と言われています。
壮麗無比な塔として、
京のランドーマーク・タワー
あり続けて行くのだと思います。


※「胎蔵界 マンダラ除蓋障院の思想」
 1968年 八田幸雄

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