京の冬の旅2022 御室仁和寺 宸殿、そして霊明殿へ


御殿群中央に建つ"宸殿"、
天子の直筆の文書を"宸翰"、
"宸襟を悩ます"などと使われます。
仁和寺で宸=天子とは宇多帝のことで、
はじめて退位後に出家し"法皇"に、
父の光孝天皇には多くの子があり、
臣籍に降ろされていたが、
復帰して即位した初例でもあられます。
"関白"という官職を任じたのも、
宇多天皇が初めてのことです。

《宇多法皇像》
 仁和寺 1614年(慶長19)

関白に任じた藤原基経は、
"阿衡の紛議"という事件など、
橘広相への対抗がありましたが、
基経の死去後は
藤原氏の勢力を抑えて"親政"。
"親政"とは自らの権限で政治を
進めることだったのでして、
その右腕は菅原道真でした。
譲位後は仁和寺で出家、
"法皇"となったのも、
密教の最高位の"阿闍梨"として
修行したのも宇多法皇その人です。

白書院と宸殿、黒書院、霊明殿へは、
"御殿回廊"で繋げられています。

"右近橘"…もうすぐ雛祭ですが、
お雛さんに向かって
左側に飾るのが正しい
のです。
右左については天子からみての位置、
京都市の右京区・左京区も、
地図ではナゼ逆?ではなく、
大極殿から覽ての右左なのです。

奥にみえるのが左近の桜です。

桜舞なかでの舞楽、杉戸絵をすぎると…

五重塔を借景とした池泉庭園"北庭"へ

宸殿前の白川砂に"特別回遊ルート"が
設けられていました。

普段はこんな感じなのです。

車寄が設けられている
左端より下段の間。

下段の間の襖絵は《鷹野行幸図
冬の"交野"が描かれています。
鎌倉~戦国期から見える交野は、
御狩・遊覧のため訪れていた
上皇があって"交野禁野司" という
職も置かれていたことがあるとか。

中段の間西側には夏の「葵祭之図

東側には秋の「大堰川三船之図

そして将棋"竜王戦"
2021年10月23日の
第34期竜王戦七番勝負第2局は、
こちらで対局されたのです。

襖16枚のほか腰障子34枚、
壁と小壁約42枚、帳台構4枚…
手掛けたのは御所御用絵師
原在泉(1849-1916)の筆で、
1913年(大正2)に描かれたもの。

上段の間

庭園の景として背後の建物を利用した
構成は比較的珍しいそうです。
宸殿の庭より一段高くなった丘の上、
庭の池への深い流れを渡って辿り着く
ように作られているのが"飛濤亭"。

もうひとつの茶室が北西側にあるのが、
尾形光琳の遺愛の席を移したとも
伝えられる"遼廓亭"です。
門前にあった尾形乾山
住居からの移築だそうでして、
有楽の"如庵"の写しとも…

宸殿前に設けられた特別ルートへ…

池と石組みと草木がぐっと近くに

元禄年間頃より造営がはじまり、
一度完成をみたものの、
宸殿の再建にともない
小川治兵衛によって整備されたもの。

上段の間のこのアングルは、
特別ルートならではのものです。

続いて霊明殿へ…

黒書院の北側に渡り
さらに廊下を進むと…



南面して建つ霊明殿

亀岡末吉の得意とする
唐草を図案化した蟇股彫刻

霊明殿は御殿内の唯一の仏堂で、
歴代門跡の位牌が祀られています。

方三間、一間向拝付、檜皮葺。

扁額は近衛文麿の揮毫で、
戦後の昭和天皇のご進退について、
話し合いの席が持たれたのが、
仁和寺に近い別荘「虎山荘」。
その内容は退位・出家していただき、
仁和寺に入るといったもの…

だったともされています。
仁和寺39世門跡の岡本慈航
参加したともいわれていて、
仁和寺に訪問時に揮毫したもの。

【文化遺産オンライン】より

内部は一室で三間幅の仏壇を設け、
折上小組格天井を張るといった
平安後期の様式を意識した構成です。

本尊は薬師如来坐像で秘仏、
二重の小厨子に収められていて
寺僧でもお目にかかれないもの。
調査で貴重なものであることが判明、
1989年に国宝に指定されました。
白檀材が用いられ、
円形図光には七仏薬師、
後塀形の光背には
日光・月光菩薩が浮彫りされ、
台座の腰部には十二神将
各面三体ずつ配されています。
像高は10.7cmと小像ながらも
精緻な彫りを施したのは、
平安後期の円勢・長円の作。

霊明殿から宸殿を臨む…
御室仁和寺ブログは続きます

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