京都十六社めぐり 豊國神社
京都十六社めぐりは
京都をまさに「めぐりくる」。
何度も訪れたことのある
神社のひとつが豊國神社。
おなじみの最大の理由は、
京都国立博物館に近いから。
豊臣家の滅亡には、
いろんな謎が渦巻いています。
一つは…
大坂冬の陣のキッカケとなった
「国家安康の銘鐘」ですね。
「国家安康」「君臣豊楽」、
家康の文字を二分し呪詛をはかり、
豊臣家の幸福を祈念するもだ。と…
撰文は東福寺の文英清韓という僧、
秀吉、秀頼の五山の学僧として
寵遇されました。
この梵鐘をみていつも感じるのは、
なぜ鋳潰されなかったのかということ。
戦時中の金属供出の対象にも
ならなかったのか…実に不思議です。
銘文を撰文した文英清韓が
住持をつとめた東福寺五塔頭、
天得院は慶長19年(1614年)に
取り壊されることに、
その後の大阪夏の陣による豊家滅亡。
豊国神社本殿裏手に残る方広寺大仏殿跡、
大仏発願は秀吉関白就任したとき、
もとは東福寺 近くに建てようとしたとか。
『中井家絵図』より
1595年には高さ18mの木製金漆塗の
大仏坐像が安置されますが、
翌年の大地震で大破します。
その後 秀頼が金銅に変えて復興、
1612年に完成させました。
跡地にのこる石組み…
豊國神社の本殿を臨む…
豊臣氏滅亡後の徳川政権下でも
大仏殿は維持されたそうです。
門前餅の甘春堂さんの大仏餅は、
いまも健在ですが…
1798年(寛政10)の落雷炎上で焼失、
仁王門跡から西へ伸びる道が
いまなお正面通と呼ばれるのは、
方広寺に由来しているのです。
もう一つは、秀吉の朝鮮出兵。
天下統一後になぜ大陸にも
その支配を伸ばそうとしたのか?
正面通りには古来一般の戦功の
御印である首級のかわりに、
朝鮮軍民の耳を削ぎ塩漬けとして
持ち帰ったとされます。。
秀吉の命によりこの地に埋められ、
供養の儀がもたれたという。
耳でなく一つしかない鼻だったとも…
朝鮮半島における抵抗と、
戦略の甘さにより敗退となった。
文禄・慶長の役は本当に秀吉が
やりたかった戦いであったのか、
彼の終末を知るたびに、