西寺滅して東寺が残ったワケ


「794 うぐいす平安京」
桓武天皇の勅願により、
平安京の造営が始まった
794年は延暦13年。
メインストリートの朱雀大路
東側を左京、西側を右京…
羅城門の右手に東寺、
そして左手に西寺が創建。

唐橋西寺公園のど真ん中に
もっこりの土山に
史蹟西寺阯」があるのです。

1959年から行われた発掘調査…
文化庁の境界域もみられました。

金堂跡には礎石が無造作に
置かれています(T_T)

こちらは土中に埋まったままですが、
子どもが小石を並べていたりして…

法面は一部コンクリートで
保護されているものの…
今ある東寺と同じ規模の寺院
ここに存在したことは、
ほとんど実感できません。

史跡 西寺跡の解説板…

さらに近年になって、
巨大な井戸跡が発見されたとも。
22メートル四方もあるとか…

すこし離れたところに
西寺の寺域にあった西方寺が
興国山 西寺」と号して
その名を継いでおられます。

門前には「西寺旧跡

国家・王城鎮護”を目的に
創建された東寺と西寺は、
ともに820年頃までには完成、
東寺と同じように、南から南大門、
中門、金堂、講堂、食堂の順に
伽藍が並んでいました。

823(弘仁14)年に
嵯峨天皇は東寺の管理を
弘法大師 空海に、
真言密教の根本道場として
発展したのはご存知のとおり。

一方…西寺の管理は
守敏僧都に委ねられました。
ともに真言宗の僧であり
常にライバルでもありました。

西寺の荒廃を「雨乞いの対決」に、
守敏が破れたから
言われることがあります…
干ばつ続きで困っていた824年
朝廷が彼らにその祈祷させたことは、
史実のようですが…

西寺には990年に起きた
落雷による火災により焼失
その後の再建されるものの、
鎌倉時代の1233年に
五重塔が焼けて西寺は廃絶
以後再興されませんでした。

ただ東寺にも衰退の時代がありました
空海が東寺を離れ、高野山に入定…

東寺の五重塔も1055年に、
同じように落雷で焼失したのです。

いまの五重塔は寛永21年、
1644年に再建された5代目
4度焼失したことが、
空海への信仰心を深くさせ
歴代天皇や、織田信長、
豊臣秀吉、徳川家康

五重塔再建そのものが、
東寺の隆盛を支えたとも
言えます。

西寺には全国の寺院や僧尼を
統括する施設「僧綱所」
置かれていました。
天皇の国忌を行う官寺として
発展した歴史がありましたが、
その一面では東寺より
西寺の方が格上だったとも…
平安半ばに国家財政が破綻
官寺の多くは廃寺に、
西寺も例外なく、
東寺には時代の流れのなかで、
あらたなスポンサーが出現。


時代の対立軸の変容、
京都という都のシンボル
在り続けた存在でした。

そして…そもそも平安右京は、
平安中期の『池亭記』によると、
「西京人家漸稀。殆幾幽墟矣。
 人者有去無來。屋者有壊無造。」

右京域は桂川の洪水
低湿な地勢で衰退されたと…
地質学的にも地勢の影響は、
少なくなかったようです。


※このブログは以下の論文も参考にしました。
平安京右京の衰退と地形環境変化
 戸口伸二 著 1996年「人文地理48(6)」所収

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