尾張国一宮をあるく⑤ 玉ノ井賀茂神社その1
尾張猿田彦神社の
最寄の奥町駅から
奥宮千勝神社、
若宮神明社を辿ると、
名鉄玉ノ井線の終点へ、
玉ノ井賀茂神社まで
足を伸ばしました。
車道を挟み真ん中に歩道、
珍しいシチュエーションを
テクテクと…
かなり距離がありました(T_T)
138の数字を付けた奴は、
「いちみん」という
一宮市のマスコットキャラ。
市内にたつツインアーチ138を
モチーフにしているとか。
いちみん のおおきさは?
138イチミン?
イチミンは、
この妖精の大きさの単位??
名鉄玉ノ井線は正確には、
弥富駅から玉ノ井駅間の
尾西(びさい)線の北部分。
1944年まではさらに北進、
木曽川港駅まであったそうです
前置きが長くなりました…
「賀茂神社」の話へ。
6世紀半ばの
創建と伝わる古社で、
境内の「玉ノ井の霊泉」が
地名の由来です。
こちらが玉ノ井の霊泉。
光明皇后の目の病気を
平癒させたと伝わります。
『霊泉玉井由緒記』によると、
天平3年(731)聖武天皇に
命ぜられた行基が、
都に帰ったのだとか…
平安時代の記録の
『延喜式神名帳』には、
穴太部神社とありました。
平安時代後期になって、
賀茂神社の祭神が祀られ、
社号も賀茂神社と
改められたとこと。
神馬の神紋には、
葵がみられます。
御祭神は玉依姫命と
賀茂別雷命。
玉依姫命は賀茂別雷命の
母神にあたります。
玉ノ井が天平期に
辿るということ…
享保2年(1717)の発掘で、
「天平三年三月五日」の
墨書の古井桁が発見、
歴代領主から庇護され、
尾張藩主徳川家から
社領の寄進された所以です。
そのことが
記されているのが、
『尾張名所図会』。
京都と鎌倉を結ぶ
鎌倉街道に沿いにあたり、
文人墨客の題材にもなって、
広く知られた存在だったとか。
鎌倉初期の歌人
飛鳥井雅経の歌碑。
「思ひいつや みたらし川に
せしみそぎ
忘れぬ袖の 玉の井の水」
飛鳥井雅経は歌鞠二道で
知られる飛鳥井家の祖、
『新古今集』の撰者の一人。
歌鞠二道とは、
蹴鞠、和歌両道の意。
小倉百人一首の94番、
「み吉野の 山の秋風
さ夜ふけて
ふるさと寒く 衣うつなり」
歌碑にあるもう一首は、
玉ノ井村の庄屋、
地名の由来です。
こちらが玉ノ井の霊泉。
光明皇后の目の病気を
平癒させたと伝わります。
『霊泉玉井由緒記』によると、
天平3年(731)聖武天皇に
命ぜられた行基が、
都に帰ったのだとか…
平安時代の記録の
『延喜式神名帳』には、
穴太部神社とありました。
平安時代後期になって、
賀茂神社の祭神が祀られ、
社号も賀茂神社と
改められたとこと。
神馬の神紋には、
葵がみられます。
御祭神は玉依姫命と
賀茂別雷命。
玉依姫命は賀茂別雷命の
母神にあたります。
玉ノ井が天平期に
辿るということ…
享保2年(1717)の発掘で、
「天平三年三月五日」の
墨書の古井桁が発見、
歴代領主から庇護され、
尾張藩主徳川家から
社領の寄進された所以です。
そのことが
記されているのが、
『尾張名所図会』。
京都と鎌倉を結ぶ
鎌倉街道に沿いにあたり、
文人墨客の題材にもなって、
広く知られた存在だったとか。
鎌倉初期の歌人
飛鳥井雅経の歌碑。
「思ひいつや みたらし川に
せしみそぎ
忘れぬ袖の 玉の井の水」
飛鳥井雅経は歌鞠二道で
知られる飛鳥井家の祖、
『新古今集』の撰者の一人。
歌鞠二道とは、
蹴鞠、和歌両道の意。
小倉百人一首の94番、
「み吉野の 山の秋風
さ夜ふけて
ふるさと寒く 衣うつなり」
歌碑にあるもう一首は、
玉ノ井村の庄屋、
で…現在の玉井清水、
ポタポタと雫落ちるのみ。
多くを汲みたいならば、
森町駅近くの
貴船神明社がオススメとか。