大阪のはしばし vol.9 淀屋橋


淀屋橋
を歩いて渡る人は
1日7万人を超えると
言われます。
南向き一方通行の車道も
ほぼ6万台超え、
25万人以上がここを渡りきる
大阪のデイリーユースの橋。

幅36.5mに対して、
長さは53.5m。
8車線の道路を抱えるので、
交差点の一部のように
思えてしまうのは仕方ありません。

桁下がえら〜〜く
低くなっているのは、
都市の宿命でもあるのですが、
地盤沈下の影響です。

デザインは大江橋とあわせて
選ばれたコンペによる設計。
審査委員は片岡安武田五一など
当時の関西を代表する
エライ建築家が名を連ねていて、
大谷龍雄との案をベースに、
武田五一と元良勲が、
実施設計をしたのだそうです。

原案には
橋脚の上に塔があったとか…
「柱頭の飾壺上に
 火焔の形をつけたるは
 少しく蛇足の感あり」
…この親橋はその名残(TOT)

パゴダのようにも見える親柱、
それでいてアールデコ風にも
見えます。
本来“塔”だったはずの場所は
バルコニーになっています。

淀屋橋というのは中之島の礎を
築いた「淀屋」に発する名でして、

橋の袂には「淀屋の碑」。

秀吉に選ばれて土佐堀川南岸、
大川町に居を構えた
初代当主 淀屋常安
当時の中之島は葭
(よし)の茂る
中洲に過ぎなかったのですが、

開発されると大名の蔵屋敷、
米が積まれて市が開かれ…

中之島からも来やすいようにと、
土佐堀川に架けた橋、
いつしか淀屋橋と
呼ばれるようになったという。

「淀屋の碑」の淀屋橋には、
擬宝珠がみえます。
公儀橋である証の擬宝珠が
描かれているのは、なぜ?。
天満橋・天神橋・難波橋は
徳川幕府の公費で
維持管理されてきた公儀橋。
淀屋橋は、地元の町民たちが
私費で支えてきた町橋なんだけど?

桁外れの浪費家だった
5代目 淀屋辰五郎の時代、
「町人の分限を超えた
 贅沢な生活が目に余る」
として、
淀屋は幕府に全財産没収、
そして…
大坂から追放されてしまいます。

闕所
(けっしょ)という
財産刑に処された理由は、
「大名貸し」の増大によって
大名が商人の実質的支配下に
置かれるという身分の転倒を
見過ごせなかったのかも?
知れませんね
ちなみにこの淀屋橋は、
大阪市建設局の管理では
ないそうでして…
国の重要文化財でもあり、
国道25線にかかる橋、
というのが理由です。

「淀屋橋」

橋長 :53.5m 幅員:36.5m
形式 :RCアーチ
完成 :1935年(昭和10)
河川名:土佐堀川

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