岸和田モダンをあるく〜交野無尽金融岸和田支店 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 投稿者: 虎次郎 - 6月 15, 2016 白い石造り風のモルタル仕上げ、上部は煉瓦タイル貼り。飾り壺である「ベイス」を左右に、 銀行としての威厳を放つ造りギリシャ風の持ち送り。「交野無尽岸和田支店」として大林組によって建設。 ちなみに…「無尽(むじん)」とは、戦前の日本で盛んに行われた金融。無尽講とも頼母子講とも呼ばれ、利息の額で競り合う「競り」や 「抽選」があったとか…1942年に大阪の5つの無尽会社、交野、大阪中央、金剛、関西商工、大阪不動が合併。近畿無尽は「近畿大阪銀行」の前身でもあります。「交野無尽金融 岸和田支店」 →近畿大阪銀行 岸和田支店 建築年:1929年以降(昭和初期) 設計 :不明 構造 :鉄筋コンクリート造3階建 所在地:岸和田市宮本町2-5 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
異界との出入り口《春日権現験記絵》 投稿者: 虎次郎 - 9月 16, 2021 『 春日権現験記絵 巻八 』の一場面 板葺きの屋根の軒先から、 腰に 小槌を差した赤鬼 が家の中を 逆さまにのぞき込む。 家の中では 男が激しく嘔吐 … ただ事ではないことは察しがつきます。 屋根の上の鬼は男に 取り憑こうとしている "疫病神" 。 《 化物昼寝鼾 》見越し入道ら 鳥居清長画 1784年 逆さまにのぞき込む異形 … 恐怖を呼ぶ一つのパターン。 現代の 都市伝説 にも、 車のフロ ントガラスの上から 逆さまの顔がすっと下りてくるとか… 妖怪の見越し入道 にも、 後ろからぐっと首を伸ばして 顔を逆さまに出してくる。 妖怪や幽霊が上の方から 逆さまに姿を現すというのは、 恐怖を感じるパターンとか。 ただ『春日権現験記絵』家人たちは、 鬼に気が付いていないと言うより、 見えていないのだと思います。 病人のいる家の外に 石が置かれ 、 祭壇を置いたあとも見えます。 小屋の中には既に命を引き取った とみられる女が横たわっていて、 《病草紙》 の形相ともみえます。 詞書にはこうある… 「弥生の朔日、河原に出たるに、 傍らなる車に、法師の紙を冠にて 博士だちをるを憎みて 祓戸の神の飾りの幣帛に 転も紛ふ 耳はさみかな」 「 耳はさみ 」とは、 林立した幣帛に紛れた紙冠、 もしくは、場にふさわしからざる 法師その人を指す とか… 呪術を終えて帰っていくのは 陰陽師 の" 声聞師 "※1か それとも僧形の" 宿曜師 "※2か。 さらに左に絵巻をたどると、 物々しい武士の一段。 詞書によると、館の主である 大舎人入道の夢にでてきた武士 。 人の目には見えない疫鬼、 夢の中でだけみることができる 武士の一団も疫病が可視化されたもの。 14世紀初頭の制作された時代、 "鬼と武士"に異形なる存在 に、 疫病の姿が表されているのです。※3 実は 武士の登場は巻二 にみえ… 残虐なシーンを描き出し、 武士が世を騒がし、 厄災を撒き散らす存在 として、 共有されていたことを 焼き付けさせていました。 巻六第一段には、 地獄の表現 がみられます。 実はこのシーンは、 春日明神のおはからいで 地獄行きを逃れた男。 春日明神の案内で " 地獄ツアー "の一幕なのです。 この男は 興... 続きを読む
唐津くんちのヤマゴヤ 投稿者: 虎次郎 - 6月 03, 2012 唐津と言えば「唐津くんち」。 「くんち」とは諸説あるらしいが、 秋の収穫祭が行われる旧暦9月9日(重陽の節句)の 「 くにち 」が語源だといわれているそうです。 唐津のくんちも唐津神社の秋季大祭。 唐津くんちで使われる曳山14台は 江戸末期から明治にかけて町人たちによるもの。 紙や粘土といったものを使って 「 漆の一閑張り 」という技法で作られています。 「本体を木組みし粘土の原型や木型の上に 和紙を数百枚貼り重ね、麻布等を張り、 幾種類もの漆で塗り上げ、 金銀を施して仕上げたもの。」 と唐津市のサイトなんかには出てきます。 5番ヤマ(魚屋町)鯛 4番ヤマ(呉服町)源義経の兜 一番はじめに作られたのが「赤獅子」で 文政2年(1819)のことで、 そして15番目に明治9年(1876)に「 七宝丸 」。 ただ残念ながら紺屋町の「黒獅子」は明治の中頃に 破損してなくなってしまったそうです。 14番ヤマ(江川町)七宝丸 以前は各町内がそれぞれ曳山保管の曳山小屋 (ヤマゴヤ)を建てて格納していたそうですが、 1970年10月に曳山展示場が出来て、 「ヤマゴヤ」で一年中観ることができるのです。 6番ヤマ(大石町)鳳凰丸 8番ヤマ(本町)金獅子 2番ヤマ(中町)青獅子 絵葉書は一昔に訪れた時に買い求めたもので、 蒐集癖の対象であった虎次郎コレクションを 押入れから探し出したものです。 続きを読む
《春日権現験記絵》にみる巫女の姿 投稿者: 虎次郎 - 9月 21, 2021 《春日権現験記絵》 巻一第一段の冒頭、 橘氏の娘に春日大明神が取り憑き 託宣したことが記されています。 春日大社に 橘氏の娘という巫女 が 常駐していたらしく、 時代を隔てて何度も登場するのです。 一代限りの一人の女性をささずに、 橘氏の娘として代々継いでいく… 巫女の家筋が存在していました 。 《春日若宮御祭礼絵巻》 上巻より 奈良・春日大社 春日大社は民間の芸能民との縁が深く、 "おん祭" ではさまざまな舞が奉納、 芸能民の一つに 遊女(あそびめ) がおり、 "遊女"が雑芸や 鼓打ち などを 担っていたことが知られています。 《法然上人絵伝》 より 『 梁塵秘抄 』に「 遊女(あそび) の好む物、 雑芸、 鼓、小端舟、簦翳(おほがさかざし)、 艫取女、 男の愛祈る百大夫。 」 遊女たちは、宿場町や船の発着のある宿場で 芸を披露し、お客をとっていたのです。 《法然上人絵伝》の 室津の遊女 を イメージさせる事物が並んでいます。 映画『 君の名は。 』でも巫女さん姉妹、 くるくると回転しつづける舞、 神を憑依させ、神のことばを託宣する 。 ただなんとなく 巫女は若い女性 と 決めつけているのはナゼでしょうか。 《春日権現験記絵》 巻四第四段… 若宮の拝殿で舞を舞っている 巫女が神がかりして託宣をする話、 続く第五段にも若宮の前で集って 神楽を舞っている巫女から託宣を得る。 よく知る"巫女"の姿を「験記絵」で、 みつけることはできない のです。 「 《春日権現験記絵》に居る "こどもたち" 」 で登場させたこのシーン。 蛇をいじめていた子どもが重病におち、 護法占 (ごほううら)をすると、 春日大明神が憑依 したという。 春日大明神を神降ろしした者とは、 " 鼓巫女 "だったというのです。 手前の部屋で大きなお櫃を台として、 塩をのせた盆が置かれています。 その脇に鼓を前に置き、 病人を指さしている性別不詳、 実は この老女が巫女の姿 なのです。 老女の向かい背を向ける男は、 数珠の輪を繰る 山伏 の姿。 この巫女は 巻十五第二段 も登場、 詞書によると… ある僧侶が春日大社で居眠りしている お坊さんの頭を足で蹴飛ばしたことろ、 病気になったので巫女を呼んで 春日大... 続きを読む
清水寺をあるくvol.2 清水の舞台から… 投稿者: 虎次郎 - 12月 12, 2020 思い切った決断を意味する 「 清水の舞台から飛び降りる 」。 歌川芳梅《滑稽都名所 清水寺》 、 傘を両手に女性が宙を舞う… 非現実的な構図だけど、 実は作り事ではないらしい。 『 清水寺成就院日記 』によると、 江戸時代には234人が 飛び降りたという記録が残ります。 成就院は財務や対外交渉を 担当した塔頭 で、 業務日誌が残されていました。 境内の事故を町奉行に報告する 義務も担っていた、 年齢や性別、居住地、 動機などの詳細な記録です。 舞台が描かれていないが、 題は《 清水舞台より飛ぶ女 》。 鈴木春信 が1765年に描いたもの。 大きな番傘を手に… 江戸期の記録の死亡者は34人、 生存率は約85%。 多くの動機は 「自殺ではなかった」 のです。 自らの体を痛めて修行すると 往生できるという信仰 もあり、 清水寺で観音様に願い をかけた後、 舞台から身を投げたということ。 願いが叶うときは怪我もなく、 そして… たとえ命を落としても成仏できる と信じられていたようです。 当時は舞台の下に木々が多く茂り、 地面も軟らかな土だったことも、 生存率を支えていたのでしょう。 『成就院日記』にもどります。 「自分の病気の治癒」「母の眼病」 「暇がほしい」などが動機として 記されているようで、 自殺願望ではなく、 信仰心の篤さ が看て取れます。 《洛東清水寺》徳力富吉郎 1872年に 京都府が禁止令 を出す。 そして、舞台の周りには 防止用の竹矢来が組まれます。 十返舎一九の 『東海道中膝栗毛』 、 「観音さまに願をかけて舞台より 飛び降りる人がいるがけがをしない」 と弥次喜多に僧が解説… 式亭三馬の 『浮世風呂』 には 「清水の舞台から飛んだ と思うて十二文」と、 野菜を値切る場面。 江戸後期には 「清水の舞台」 の 言い回しは広く使われていました。 若者の比率の高さの話。 年齢が分かる170人のうち、 20歳以下が7割以上を占める。 1人で2回飛び降り、 2回とも助かった若い女性も… イマなら「キヨブタ」 と 呼ぶのかも知れません。 続きを読む
太閤秀吉を辿る vol.11 加藤清正と島津義弘の虎退治 投稿者: 虎次郎 - 2月 06, 2022 《朝鮮之役ニ清正猛虎ヲ撃》 橋本周延 1889年 豊臣秀吉 の子飼い衆の 加藤清正 、 幼名が "虎之介" とだったこともあり、 虎との縁は深く 豊臣秀吉の"虎"への執着 、 歴史のなかで繋がっていくというお話。 『絵本太閤記』「清正虎退治」 『絵本太閤記』 にはこうあります… 「清正が野営していた時、 一匹の虎が馬をくわえて 飛び出してきた。また、 虎は小姓をも食い殺されたため 、 清正は山中を狩り立てる。 大岩の上から大きな虎を 見つけた清正は、 自ら虎を仕留めんと、 家来たち百人ばかりが鉄砲で 撃とうとするのを押しとどめ、 襲い掛かる虎の喉を狙って 鉄砲を撃ちこむと、 さしもの虎も息絶えた。 」と。 《和藤内虎狩之図》歌川国芳 近松の浄瑠璃『 国性爺合戦 』の 主人公 和藤内 が雪の中、 虎退治する情景の三枚摺。 槍の先には大きな虎… 咥えられもう抵抗することのない 武者の身体から静けさが漂います 。 長烏帽子に蛇の目紋の 槍を持つ和藤内… 明国人の父と日本人の母の間に 日本で生まれた和藤内が、 父の祖国の復興のために渡った 唐土で虎退治を行う有名な場面。 加藤清正 であることを示すに十分… 幕府の出版に対する検閲により、 加藤清正としては描かずです。 加藤清正の虎退治は近代の引札にも… でも一番の疑問は 虎之介 と名乗る 加藤清正がなぜ虎退治 したのでしょう。 『絵本太閤記』「加藤虎之助の伝」 清正の秀吉の出会いについては、 裏付ける当時の史料が残されておらず、 後世の創作という可能性が高いのですが… 領地に関する確認できる史料においては、 清正が19歳の時に秀吉から 近江国120石を与えられるのが初見 。 『絵本太閤記』「豊臣家奥業勇士之像」 長浜城下で乱暴者を召し捕った褒美、 200万を加増されたとの『 清正記 』の 記述も後期の創作と思われるのです。 伝記などには 「虎之助」 とありますが、 秀吉が宛てた手紙には「虎介」 … 清正の20歳ころの 花押もその組み合わせ 、 正しくは" 虎之介 "なのだとされます。 《島津家朝鮮虎狩絵巻》 九州国立博物館 蔵 実は 虎退治のオリジナル は、 島津義弘 なのだとも伝わっています。 義弘は二度の朝鮮出兵に従軍、 大きな戦... 続きを読む