猿田彦のミチを開くvol.29 東京 日枝神社の猿田彦


東京のどまんなかよく聞く永田町界隈
そこにおられる"みちびき"の神

半蔵門線 永田町駅からおよそ5分ほど、
日枝神社が鎮座されています。

表参道でもある山王男坂の石段は53段。
ちなみにいくらか緩やかな坂は"女坂"、
江戸時代は将軍社参の時だけ
使用されたことから"御成坂"と呼ばれたとか。

山王男坂を登りきると"神門"

祭神を守る者 随身

門守神(かどもりのかみ)とも言い、
随身像を安置した門は随身門と呼ばれます。
ちなみに1945年の空襲で社殿とともに焼失、
戦後再建されたものです。

門をくぐり振り返ると…
扁額には"皇城之鎮"とあり、
徳川家の崇敬は特に篤かったようです。

神門の裏側には神猿の像、
神猿は日枝神社の神使とされていて、
日枝神社では、神猿を「まさる」と呼び
"魔が去る"とも、"勝る"として
縁起の良いものとされてきました。
鳥帽子をかぶり御幣を担ぐ姿。

ちなみに社殿前の「まさる」は
御幣をもっていません。

日枝神社公式キャラクターの
まさるくん」の絵馬。

社殿向かって左手の赤ちゃんを
抱きかかえたメスの神猿像
神門の神猿像は鈴木慶雲 さんの作で、
1967年に奉納されたものです。

神殿前の石像は神楽鈴を持たずに、
しっかりと子猿を抱えています。

社殿は1958年に造営されたもの、
1945年5月の空襲までは、
1659年(万治2)造営の社殿があり、
国宝に指定されていました

社殿右手にぬけるとちょうど北側に、
山王稲荷神社八坂神社・猿田彦神社

左が山王稲荷神社で麹町隼町から
移転してきた折に日枝神社と共に
建立されたと伝わります。

福知山藩主 松平忠房の邸内に
祀られていた屋敷神と伝えられ、
日枝神社が麹町隼町から
移転してきた際に日枝神社とともに
社殿が建立されたとあり、
現社殿もこの時に造営された
可能性が高いと見られています。
関東では珍しい「縋形式春日造本殿」。

山王稲荷の社殿だけが被害を
免れて残ったことで、
本社復興までの間、
仮本殿として用いられたそうで…

火伏せの信仰のお陰やも知れません。

神使の白狐


蟇股も白狐

拝殿左側にかかる扁額は、
八坂神社・猿田彦神社

左側の社殿の幕にある神紋は、
八坂神社の紋五瓜に唐花

猿田彦を示すものはどちららかというと、
日枝神社本殿や祈祷殿に目立ちます。

絵馬の種類も猿が描かれたものが多いのです。

日枝神社例祭の初庚申には、
猿田彦神社にて神事が執り行われます。
御本社山王権現と共に1659年(万治2)、
奉祀されたと伝えられます。
里俗の説に“山王のお使い
即ち神猿とも言われる所以です。

狛犬はそれぞれ陰刻の銘文があり、
植草重左衛門ほか10名と
地形方抱 三右衛門、石工 新川勘兵衛。

左側の像には亀田左兵衛ほか11名、
もともと当時神田神社境内に
鎮座していた南伝馬町天王社に奉納、
その後、1885年2月の神田神社周辺の
火災で天王社本殿が焼失した後、
新たに日枝神社境内に
鎮守として祇園社を勧請したとか…

日枝=日吉=比叡=山王信仰=
江戸開府=黒衣の宰相天海
と続くのか…
八坂神社の御祭神はスサノヲノミコト
京都の祇園さん八坂神社には、
末社に"太田社・白髭社"がありますし、
八坂さんとサルタヒコを
同じ社殿に合祀していることは、
とりわけ不思議なことではないのです。

日枝神社は結構な高台にありまして…

巨大な山王橋が架けられていて、
エスカレーターも完備されています。

信仰が篤いことのあらわれと
いうところなんでしょう。

見下ろすとビル群が立ち並びます。

こちら七五三詣開運碁盤
子どもたちの成長を願っての
参拝もみられるようです。

江戸前期の儒学者 山崎闇斎
「道は日神(天照大御神)の道にして、
 教へは猿田彦の導く所なり」
と…
江戸から東京へと時代を超え、
裏鬼門を守ってきた日枝神社には、
猿田彦命の"みちびき"があるのです。

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