品川 北の天王社 品川神社のこと


品川富士のブログでは神社そのものは、
あまり綴れなかったので改めて…
品川鎮守・北の天王さんで、
旧社格は准勅祭社、その後に郷社に。

急峻な階段を上がると、二の鳥居。
6月の例大祭「北の天王祭」は、
とても賑わうのだそうです。
源頼朝による創建・洲崎明神を勧請、
頼朝の石橋山の戦い(1180年)敗走、
安房国へ逃れた頼朝は、
加勢を要請で"洲崎神社"で
交渉成功の祈願を行うなど、
篤く崇敬したと伝わります。

関ヶ原の戦いへ出陣に戦勝祈願、
関東移封によって徳川家康が江戸入りの
翌1591年(天正19)には5石の朱印地
賜っていたそうです。
つまり品川神社は幕府より、
所領の安堵がなされていたのです。
徳川家光により東海寺が建立され、
その鎮守社と定められ、
元禄7年嘉永3年の二度の社殿焼失でも
再建が行われるなど、
徳川将軍家の庇護を受けていました。

関ヶ原の戦い勝利した凱旋後に、
仮面や神輿などの寄進があり、
天下一嘗の面(てんかひとなめのめん)」
と呼ばれ、葵紋の神輿に取り付け
例祭を行なわれたと伝わります。

御祭神の
天比理乃咩命”(あめのひりのめのみこと)は、
天岩戸の神話に登場する神様である
天太玉命の后神、
"宇賀之売命"、"素盞嗚尊"

宇賀之売命(うがのめのみこと)は、
お稲荷さんで鎌倉時代後期の御家人で、
鎌倉幕府政所執事 二階堂道蘊が勧請。

太田道灌が1478年(文明10)に、
祇園精舎の守護神 牛頭天王を勧請。
日本における神仏習合の神である
牛頭天王であったので、
明治の神仏分離のあとは素盞嗚尊に。
太田道灌は江戸城を築城し、
江戸城の城主でにあったが、
道灌の絶大なる力を恐れられ暗殺…
悲劇の武将としても知られる人。

境内には一粒萬倍の銭洗い金運スポット
こちらは境内社の阿那稲荷神社の下社、
地の恵みの霊」が祀られ、
扁額には"一粒萬倍"が刻まれています。

社殿内左手に阿那稲荷神社の祠。

正面には八百萬神社・大國主恵比寿神社・
天王白龍辨財天社。

左手に一粒萬倍と伝わる泉
ここで銭を洗うと銭が万倍になるとか。



明治の神仏分離により1868年、
准勅祭社に指定された折に、
品川神社と改称されました、
明治天皇が、東京の鎮護と万民の安泰を
祈る神社と制定したのが准勅祭社

これが元准勅祭社の東京十社へと
繋がっていくのですが…

品川神社が北の天王社ということは、
南の天王社があるということ。
新馬場駅をこえて南の天王社
寄木神社の本務社である
"荏原神社"がそれにあたるのです。
こちらは改めて…

徳川家康より賜った朱印地…
品川大明神への5石の朱印地は、
北品川の2石5斗、南品川も同じく、
品川鎮守としての南北の分断があったとか、
御朱印書き替えのたびに
両社の宮司が出て賜り、
代わる代わる所蔵したそうで、
"朱印争い"は1830年(文政13)成立の
『新編武蔵風土記稿』にも記されていて、
品川宿が北品川・南品川と二分、
二社で品川鎮守となっていたのです。

みどころが多い品川神社…
実は本殿裏手には板垣退助の墓所も、
東海寺の寺域であったため、
関東大震災後に世田谷区に移転したが、
墓だけが残されているのだそうで、
佐藤栄作の筆
「板垣死すとも自由は死せず」の石碑…
見忘れました(T_T)


品川神社
 御祭神:天比理乃咩命・宇賀之売命・素盞嗚尊
 社格:准勅祭社・郷社
 所在地:東京都品川区北品川 3-7-15
 最寄駅:京浜急行電鉄本線 新馬場駅・北品川駅

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