太子霊場めぐりvol.19 延喜加持 剱鎧護法


毘沙門天王を信ずる者には、
八大龍王の上首・難陀竜王と
人間を災厄から守護する護法・
剱鎧童子が守護をするとか…

剱鎧護法への"すぐそこ"は、
盛られていることはなく、
大寅の手前絵馬堂より、
右へ折り返す方向に堂があります。

伏見稲荷の千本鳥居のような、
参道をすぎると寺務所があり…

剱鎧護法を病気平癒の守り本尊として
祀られている剱鎧堂
その周りを巡ってお百度を踏み、
病気平癒の祈願されるのだそうです。

お唱えは「南無剱鎧護法」とか…

時の帝、醍醐天皇は病の床にあった。
高僧の祈祷を受けるが、改善せず、
信貴山で法力を駆使する
命蓮に白羽の矢が当たる。
絵巻は、
信貴山に向かう勅使一行の姿で始まり、
入れ違いに宮中に入る高僧と、
これを噂の種にする庶民の姿

高僧に付き従う童形の従者たち…
特殊な身分の人たちで、
烏帽子をかぶらずに髪の毛を束ねる
烏帽子が成人男性の象徴だった時代、
見た目から50歳ぐらいの男性?、
大人ではなく子どもの身分でした。
『信貴山縁起絵巻』が制作された時代、
子どもの身分を持った大人が
いたことを伝えているのです。


牛飼童や大童子、堂童子ら…
稜れを祓う仕事や神仏の力を
必要とする仕事を担っていました。
堂童子は俗人が管理できない
堂の鍵の管理を行なう人。
当時、子どもは神仏の聖界と
人間の俗界の媒介者だと
考えられていたからです。

童子形の大人は、
俗な人間にはできないような
仕事を任されていました。

橋掛かりの手前に異型の童、
桶洗童(ひすましわらわ)。
腰の辺りに尿筒(しとづつ)…
携帯用トイレのことで、
僧侶が祈祷のために宮中に
赴く時には随行したとか、
僧侶が用を足したい時には、
この従者が必要でした。


信貴山に籠もっている聖=命蓮
鉢を飛ばしたり、法力を示しているとか。
召して祈らせれば治るものを…
命蓮は参内せずに信貴山より祈祷。

数日後加持満願の日、
剱鎧護法の使者が信貴山より…
絵巻物は右から左手と
読み進まれるものですが、
剱鎧護法は左手から現れる。
信貴山縁起絵巻の描画のなかで、
とても特徴的なシーンです。


剱の護法は、
右手に剣を左手に索を持ち、
輪宝に乗っています。
輪宝とは、もとはインドの武器

信貴山朝護孫子寺に伝わる
江戸期に描かれた《剣鎧童子像》、
絵巻の童子を彷彿とさせます。
走り方が独特で手と足が
同じ向きになっています。

体の部分を中心にと、
このように描いたとも思えますが、
実は民俗学的にも当時の人々は、
このようにして歩いていたとか。


剱鎧堂の絵馬に描かれるのは、
絵巻よりもこちらが元。
信貴山縁起絵巻を研究していたので、
とっても違和感がありました
が、
2016年に奈良国立博物館で開催の
展示図録に朝護孫子寺蔵の図像を
見つけ合点がいきました。

朝護孫子寺には《太子軍絵巻》一巻が
伝わっておりこちら守屋合戦の図
まさしく絵巻から抜き出された
剱鎧護法が描き込まれています。
信貴山縁起絵巻には触れられない
信貴山と聖徳太子の関係性を語るもの。

江戸時代には《太子軍絵巻》は、
信貴山縁起絵巻国宝三巻と、
信貴山山内で尊重され、
一具として同一の箱に
納められていたのです。

《太子軍絵巻》
白膠木(ぬるで)の四天王像
彫り出し戦勝を祈願する場面、
太子進軍の際毘沙門天が出現し
「勝軍秘法」の箭(やがら)
授けられたという説話にもとづくもの。

夢から覚めてみると、
帝の病気はすっかり治っていました。
命蓮の元に使者を遣わし、
お礼に荘園を与えましょうと…
命蓮は、「そのようなことのために
祈祷をしたのではない」と、
固辞したのだと。

歴史的事実にのっとると
醍醐天皇が病気を患ったとき、
祈祷を依頼され実際には、
命蓮は信貴山から下りて、
京都へ行き天皇の側近くで
祈祷をしたそうです。
ただ残念なことに醍醐天皇は、
命蓮の祈祷もむなしく、
この世を去っていたのです。

命蓮の歴史上の真実は、
あまり多く残されていないのです。
「時の天皇、延喜のみかど、
 すなわち醍醐天皇が
 延長8年(930)病についたとき、
 8月19日修験の噂の高かった
 河内国志貴山寺の沙弥命蓮を
 宮中左兵衛陣に召し、
 病気平癒のため御前にて
 加持を行わせたというものである。
 しかし結果は、加持の甲斐もなく、
 その後醍醐天皇の病は癒えず、
 退位の後、9月29日に崩御された。」
『扶桑略記』の伝えるところ、
これのみなのです。※1

命蓮について格別の法力や
魅力ある逸話の種は
見いだせないのに…
なぜ剱鎧護法をはじめ"霊験あらたか"、
とされたのでしょうか。

《命蓮上人像》朝護孫子寺蔵

百橋明穂さんの研究論文によると、
「しかしながら
 命蓮にまつわる説話は、
 いつの間にか史実を離れ、
 やがて自己増殖を始める。
」※1
955年頃に書かれたとされる
『僧妙達蘇生注記』には、
河内国深貴山明蓮が法華経の
行者として知られるに留まるが、
11世紀末の「今昔物語」に、
人が来ないときに鉢を飛ばして、
托鉢して食を得、瓶を遣りて水を得、
不足することがなかった…

歴史の記録と説話文学との間が、
次第に乖離していったのです。

続く三巻とされる「尼公の巻」、
『古本説話集』の「信濃国聖事」が、
題材となっているとされています。

《信貴山縁起絵巻》「尼公の巻」
命蓮の姉が信濃国を出発する場面

絵巻が成立した時代には、
すでに命蓮の説話が広まり、
「口承的性格の強い説話集と
 絵画化のための柔軟性」

模写が繰り返され…
"より霊験あらたか"なるものが
作り出されていったとか。


《信貴山縁起絵巻復元模写》文化庁

※このブログは、百橋明穂(どのはし あきほ)さん
 神戸大学人文学研究科「信貴山縁起再考」
 参考にしました。

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