エリア反正vol.3 反正陵の陪塚たち


反正陵にも陪塚がいくつか、
こちら「鈴山古墳」。
一辺22m程の方墳は、
すでに一部が削られ…

埴輪が立てられ、
濠がめぐらされていた
と考えられています。

なんかしら方違神社
鈴山大明神」との関係が
あったのかもしれません。

むかしは節分の夜には、
鈴山の麓で夜を明かす…
そんな風習があったそうです。


神社でお参りをするとき、
神官がお祓いをするとき、
大小の違いはあるものの、
鈴を振りますね

「お参りに来ましたよ」
という合図でもあります。
アルピニストの熊除けの鈴、
大自然との境界に立ち入るとき、
鈴の音はキーなのですね。

もうひとつの陪塚
天王古墳」。

円墳のようにも見えますが、
1辺11m程の方墳です。

この2つの陪塚…反正陵の
周りは砂利道が多く、
たどり着くのに四苦八苦。
陵の前にはこんな
てくてくろーど」の双六が

あったんだけど…迷いました。

百舌鳥古墳群には44基中5基しか
方墳」がありませんが…
そのうちの2基がここに
残っていることは、
「考古学的に注目に値する」
ことなんだそうです。

平安時代から熊野詣
盛んに行われていましたが、
反正陵西側を通っていた
のが「熊野街道」でした。
方違神社北方にあったと
伝わる「境王子跡」。



もっこりした所に石段。
こんな伝承が残ります。
応神天皇の末子の
 菟道稚郎子が皇位を
 異母兄の仁徳天皇に譲るため、
 都からさすらい出て、
 この地で
 食を断って絶命したという」。

向かいに見えるのが
王子ヶ飢公園
おうじがうえ と読み、
伝承に繋がる名前です。

1929年頃まで
墓地だった名残が、
残っていました。

方違神社の旧参道は、
いまは「けやき通り
という名がついています。

欅(ケヤキ)が植えられたのは、
1965年のことです。
府道大阪中央環状線から
大和高田線までの約1kmに
約170本が植えられました。
2001年に
けやき通りまちづくりの会
が発足しています。


けやき通りを
南へ下りていくと…
芝生の盛土が見えてきます。
ここにも古墳?陪塚??

登録有形文化財の
旧天王貯水池」なのです。

正面入口には、
当時の最新の建材である
煉瓦が用いられています。
水道施設の先進地にならい、
「凱旋門」風のデザイン
採用されています。

1910年に6万人規模の
上水道配水池として建設、
1964年までの約50年間、
現役を張ってきたそうです。

内部の公開は、
春と秋に年2日のみとか…

こちらの写真は戴きモノ
点検用の通路が中央に通され、
両側に貯水槽が造られていりとか。

貯水槽は5つに区切られ、
内部は半円筒の
ヴォールト架構※1です。
文化遺産オンラインには、
こうあります。
「スパン約3.6mの
 煉瓦造ヴォールトで覆われる。
 上部を曲線状にした出入口と、
 帯・笠石に花崗岩を用い楔石を
 ダイヤモンド状山切とした
 出入口を構える。
 設計は野口広衛。」

堺市市役所の水道課発足は、
明治41年・1908年のこと。
野口広衛さんは発足時の
工事部の技師で、
工場長だった人です。※2

※1 ヴォールト架構とは?
アーチをもととした曲面天井の総称。
組積構造における基本的な建築工法とされ、
空間や形態の特性要素の一つでもあります。

※2「組織と人 - 堺市上下水道局」より

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