サッポロ歩記2 札幌市時計台


がっかり名所とも言われる時計台、
北海道大学の前身 札幌農学校
校舎として建てられたのは1878年。
"演武場"との扁額が掛かるのは、
農学校の中央にあって、
1階は教室や標本室、
2階は講堂や軍事教練の場でした。

2階にも"演武場"の扁額。
五稜星アーチは農学校の
入卒業式時の装飾品の再現。
北辰を象った五稜星の開拓使徽章
イメージしていていて、
開拓使附属 樺太丸船長の御用掛
蛭子末次郎の案が採られたもの。
五稜郭などの設計携わった
武田斐三郎の門下生
でした。

『開拓使稟裁録』にあるのは、
7つの角があるデザイン。
変更申し出の理由は
定かではありませんが、
当初決まった開拓使附属船の旗印、
開拓次官 黒田清隆
変更を申し出たそうです。
「制定してから
 半年しか経過していない」

との理由で却下され、
七稜星デザインは幻に

黒田清隆がアメリカからの
ホーレンス・ケプロンらを
招いて建設したのが演武場です。
ケプロンの推薦で1876年7月、
当時マサチューセッツ農科大学の学長、
ウィリアムス・スミス・クラークが、
ウィリアムス・ホイラーらを伴い、
北海道へ来たのです。
1877年初代教頭のクラークは帰国、
2代目教頭のホイラーが
図面を作成したのだそうです。

実は当初は時計ではなく小さな鐘楼
落成式に参列した黒田清隆は、
鐘楼に変えて西洋文明の象徴である
時計を設置するように命じ

ホイラーがアメリカのハワード社
注文したものです。

ただ時計が大きすぎて大々的に改修、
1881年(明治14)に完成しました。
1872年(明治5)に太陽暦に変更
明治が終わるまで72もの
西洋式時計台が日本中で建設…
ただ当時のまま時を刻むのは、
札幌市時計台のみ
なのです。

ただ…昭和の初め手入れ不足で、
止まりかけていたそうです。
時計台近くの時計師の井上清さん
自ら奉仕で修理することを申し出、
財政的理由と手続き必要で断られ、
最後はしびれを切らして、
強引に昇って修理したそうです。

1933年より再び正確な時を刻みます。
清さんの息子の井上和雄さん、
そして指導を受けた2人の職員が
時計の保守を担っているそうです。

「もっと休みなさい」との意を含む
新渡戸稲造が農学校の
教え子 森本厚吉に贈った書。

1903年(明治36)校舎増築のため、
農学校が移転しますが、
時計台だけはこの地に残ります。

市に払い下げられた時計台、
仮庁舎、裁判所、公会堂、図書館、
さまざまな時代をくぐり抜けました。
幾度となく大火に見舞われた時も、
演武場を守ったのは学生であり市民。

時計台の色については、
時代によって変遷があった
とか。
赤い屋根に白い壁が印象的ですが、
建てられたときは灰色で、
その後薄いグリーン、
グリーンという時代もあったとか…
屋根の色は残念ながら不明のまま。

太い柱を使わず、
厚板や半割柱で構成した
軽量木造建築。
学校の建物らしくシンプル、
バルーン・フレームは、
仕切りのない大空間で、
軸組工法では成し得ない
枠組工法ならではの広さを実現

外壁は下見板張、
装飾の少ない外観は
「カーペンター・ゴシック」とも。

時計塔が後から付けられたため、
"頭でっかち"バランス悪っとも…
この独特の姿がこそが、
親しみを感じさせます。
札幌時計台をみないと、
北海道に来た気がしない
のです。
こないだのエスコンF観戦でも、
夜でしたが訪れました!

文学にも歌にも愛された時計台。



北の大地のランドマーク永遠に…





島口喗生 画 
浪漫地詩図夢シリーズ「札幌」より

※このブログは札幌市時計台で配布
 外国語ボランティアの鈴木水平さんの
 紙芝居を元にした小冊子を参考にしています。

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