四寺廻廊と陸奥の祈り 達谷窟毘沙門堂


達谷窟毘沙門堂
たっこくいわや びしゃもんどう
801年(延曆20) 蝦夷征伐の
坂上田村麿はこの窟に塞を構えた
惡路王・赤頭・髙丸を成敗した。
寺伝によると…
惡路王らは達谷窟より賊徒を率い、
駿河国清見関まで進んだが、
大将軍が京を発するとの報を聞くと、
武威を恐れ窟にて守を固めたという。

清水寺の舞台を模して造られたとか…

懸造りの代表である
清水寺と達谷窟毘沙門堂は、
つながりがいくつかある。
一つは、どちらも
坂上田村麻呂が建てたとされる。
もう一つは、蝦夷の惡路王
清水寺に石碑がある。
蝦夷の首長 アテルイとモレ
田村麻呂の軍門に下ったのだが、
朝廷は許さず河内国で処刑されたとか(T_T)

前九年後三年の役の折…
奥州藤原氏初代清衡・二代基衡は、
七堂伽藍を建立したと伝えられます。

奥に進むと「岩面大仏」…
3.6メートルの磨崖仏。
前九年後三年の役の供養として
刻んだのだと伝わります。
源義家が馬上から弓で矢を放って
彫り付けたとの伝承が残ります。

かつては地面まで掘られていたが、
1896年の地震で胸から下部が崩落。
1695年(元禄9)の記録は「大日之尊體」、
その後は、岩大佛と記されています。
寺では阿彌陀佛の名号を唱えておられ、
岩面大佛の下に立つ古碑には、
阿彌陀の梵字が刻まれ、
阿弥陀如来であるとみられます。

「中尊寺参詣曼荼羅二曲屏風」
 静岡市立芹沢銈介美術館 所蔵

上部左手に岩屋に懸造で
達谷窟毘沙門堂も合わせて…
曼荼羅は1573年に回禄した、
天正の兵火のあとの勧進のための
絵解きに用いられたもの。
回禄とは…火災にあうこと の意。

毘沙門堂では、柱に向かって
巡礼者が何かを書きつけようと、
そんな姿が見て取れます。

1946年に隣家から出火、
御本尊を含め救い出されが、
毘沙門堂は全焼しました。
1961年に再建の現堂は五代目。

毘沙門堂の目前には辯天堂
奥州巡錫の慈覺大師円仁
達谷川を行き来する浮島、
五色の蝦蟆の姿で、
貪欲神が化けていると見破ったとか。
大師は嶋を捕えて堂宇に閉じ込めたと。

辯才天女を自ら刻して祀り、
蝦蟆ヶ池辯天堂と名付けたとか。

辯天様は巳年守本尊
知恵の神、技芸の神。
「生けるが如く」賞されるは、
美人の譬えとされています。

辯天堂にかかる橋のそばには、
仲良き男女は共に渡らず、
共に詣らぬという習わし。


惡路王にまつわる堂宇がもうひとつ。
姫待不動堂は智證大師が、
達谷西光寺の飛地境内である
姫待瀧の本尊として祀ったもの、
藤原基衡が再建したと伝わる。

惡路王等は京から拐って来た姫君を
窟上流の「籠姫」に閉じ込め、
「櫻野」で暫々花見を樂しんだ。
逃げようとする姫君を待ち伏せした
瀧を人々は「姫待瀧」へ、
再び逃げ出せぬよう姫君の黒髪を
見せしめに切ったとか…

不動像は平安後期の作、
桂材の一木彫は全国的にも
珍しいのだそうです。

"一之鳥居ハ 石之鳥居"
達谷村の三人の石工により
達谷石を用いたもの。

"二之鳥居ハ 丹之鳥居"

"三之鳥居ハ 杉之鳥居"

奉行坊杉がそばに…

堂宇下の柱組みの広い空間は
雨露を凌ぐ絶好の場所、
諸国行脚の僧や山伏などが
休む場であったでしょう。
合戦に敗れた武者が身を潜め、
毘沙門天に導かれて、
後世に生まれ変わる

再生の場でもあったとされます。

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