四寺廻廊と陸奥の祈り 円通院 三慧殿


政宗の嫡孫 伊達光宗の霊廟として、
1647年(正保4)により
建立され開山された円通院 三慧殿
別名御霊屋とも呼ばれています。

瑞厳寺を中心に、
政宗正室の陽徳院愛姫
長女の五郎八姫の廟など、
松島の地は伊達家の霊場
として保護されてきました。

伊達光宗は、
仙台藩二代藩主 忠宗
徳川秀忠 養女振姫との間に
次男として1627年に出生。
兄の虎千代は、
光宗が3歳のときに早逝…
伊達家嫡男として
育てられたきたのです。
厨子の中には白馬に跨がる
衣冠束帯の光宗の像
 
厨子のなかには7躯の神将像
 
家光とは従兄弟の関係であり
次代の藩主として期待されたが、
1645年(正保2)9月に江戸で
19歳で早世されたのです。
 
光宗の急死には、
外様大名から名君が
出ることを幕府が警戒し、
毒殺されたとか。
江戸参府までの旅程で体
調を崩したたとか…

諸説入り乱れているようです。

神将といえば十二神将
方位の吉凶を司る八将軍は、
よくみられるが七神将は稀。
光宗とともに殉死された
七人の家臣たちとも。

三慧殿(さんけいでん)は
宝形造、本瓦葺で、
四周に高欄付の縁を巡らす。
現在は一般にも参拝ができますが、
3世紀半もの間、
秘蔵とされてきた霊廟なのです。

霊屋には光宗の厨子が置かれ、
白馬に跨る衣冠東帯の光宗を
七将が見送るという形で
祀られているのです。
 
クローバーハート
 
葵でなくスペード? そしてダイヤ

日本的な意匠のなかに西洋の図章。

扉絵には水仙バラ

水仙はイタリア、フィレンツェ市…

バラの花はローマ帝国以来からの
ローマの象徴花とされ、
支倉常長がローマ、フィレンツェを
訪ねた証として描かれたと伝わります。

バラの庭「百華峰(びゃかほう)」

墓所を薔薇が囲みます。

450年以上前から欧州で栽培種
"ロサ・ガリカ・オフィキナリス"、
咲き始めは赤みが強く、
次第に淡いピンク色に変わるとか。

伊達藩は慶長遣欧使節として
支倉常長を渡欧させ、
諸外国との直接的外交を試みたとも…
支倉はスペイン国王
ローマ法皇への謁見は叶ったものの、
外交を結ぶに及ばず帰国したという。

帰国すると…時代は移り、
幕府の鎖国政策
バラの苗は持ち帰ったのかも…。
ただし鎖国の世では、
異国から持ち帰った品々は幕府に
納めなければなりませんでした。
苦労して得た異国の文化…
霊廟に描き残したのかも知れません。

本堂本尊の聖観音菩薩像は、
室町期の漆箔桧寄木造り。
本堂の号は"大悲亭"とされ、
伊達光宗の江戸納涼の亭
解体移築されたもの。
ただ忠宗と振姫の心中は
"大きな悲しみ"に留まらなかった…

石庭「雲外天地の庭
支倉常長が帰国したのは1620年、
切支丹禁令は徹底されていて、
仙台藩でもポルトガル宣教師らが、
仙台城で殉教するという
時代の変容がみられていました。
一説には、伊達家中にキリスト教へ
帰依していたものは少なくなく、
伊達政宗の正室の愛姫五郎八姫
伊達光宗も切支丹だったとか。

遠州の庭
では政宗は?
政宗には野望があったことと、
関係しているのではないかと…
教えそのものへの関心よりも、
灌漑、鉱山、造船といった、
いわゆる西洋技術については、
大いに関心があったに違いない

仙台藩は一国一城令下でも、
若林城を築いています。
幕府への届けは"屋敷"…
天守閣こそないことを除けば、
堂々たる平城だったと伝わります。
幕府は政宗をとがめることはなく、
叔父にあたる徳川家光は、
1630年に3歳の伊達家世子に
「光」の字を与えました…
伊達光宗その人だったのです。

三慧殿に向かう石段…
固く閉ざされた霊屋にしては、
多くの人が上り下りしたのでは?
光宗崇敬の念も秘められていたのでは、
そんな風に思えてならないのです。

廟の非現実的なまでの美しさ、
そのまま忠宗の悲しみの大きさを
物語っているとも感じさせます。
約350年間一度も開扉されずに、
そしてバラと光宗が交叉する…

バラはその美しさゆえに、
さまざまな事を人々に思わせる。
トゲがあるのに…
バラの花は、自己犠牲を伴う
真実の愛の象徴とされてきました。

心の痛みを伴う愛…光宗への想い。
バラのように永遠に人々の心を
魅了しているのかも知れません。

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