四寺廻廊と陸奥の祈り 閑さや


「山形領に立石寺と云山寺あり。
 慈覚大師の開基にして、
 殊清閑の地也。
 一見すべきよし、
 人々のすゝむるに依て、
 尾花沢よりとつて返し
 其間七里ばかり也。
 日いまだ暮ず。
 麓の坊に宿かり置て、
 山上の堂にのぼる。

 岩に巌を重て山とし、
 松栢年旧、土石老て苔滑に、
 岩上の院々扉を閉て、
 物の音きこえず。
 岸をめぐり、岩を這て、
 仏閣を拝し、佳景寂寞として
 心すみ行のみおぼゆ 。


詩人 西脇順三郎ふうに訳すと、
「何たる閑かさ 蝉が岩に
 しみ入るやうに鳴いてゐる」

やかましいにもかかわらず芭蕉が
「閑さや」とおいたのは…、
蝉の鳴きしきる現実の世界とは
別の次元の「閑さ」だったのでしょう。

「佳景寂寞として
 心すみ行のみおぼゆ」
とあって
「閑さ」は心の中の「閑さ」と。
せみ塚は、元禄2年5月27日、
「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」
この句をしたためた短冊を
この地に埋め、石の塚を立てたもの。

芭蕉一行は夕方に山寺に到着、
宿坊に荷物を置くとそのまま
参道を登り参拝したのだそうです。
夕刻だったため、
参拝者や僧侶達も居らず、
御堂も門が閉められている
静けさの中、唯一蝉の声だけが
境内に鳴り響く…


当初は「山寺や 石にしみつく 蝉の声
と詠んだようですが…
杖をとどめ3泊した大石田
舟待ちをしている最中に再考…
淋しさの 岩にしみ込 せみの声
さびしさや 岩にしみ込 蝉のこゑ
その後 閑かさや に。

目の前に岩に 雲たつ 涼しさよ
名和三幹竹(なわ さんかんちく) 

秋風の 吹きすぐる時 わが肩を
 打ちて落ちたる 松かさ一つ

  生田蝶介

立石寺の参道には六道地蔵
祀られていて"金剛寶地蔵"。
一番深い暗い淵を「地獄界
次は欲の世界で「餓鬼界
続いて「畜生界
ここまでの三つの世界が
三悪道(さんなくどう)」。

「修羅界」「人間界」「天界」
あわせて六道となります。



そして見上げると観音様



多くの観音様に見守られながら…
石段をひとつずつ刻んでいく。

険しい石段は薄暗いが、
木漏れ日は観音様の道しるべ。

弥陀洞

天井は格天井、屋根は二重垂木の
仁王門にさしかかると…

阿像

吽像
運慶の13代後裔とされる
平井源七郎が手懸けたと
伝えられています。

ほとけの救済に預からなかった人は、
死後生前の行ないを吟味する
裁判を受けなければならないとされ、
その裁判長が十王で、
初七日から三回忌までを
十人の王が担当するとされています。

閻魔王はその中心的な存在であって、
判決によって生まれ変わる
世界が決まるため、
裁判を亡者に有利なものにするため
遺族が回忌供養を行なう…


門を潜り彫刻をみると
清流に魚が遊ぶ

ここからは浄土界なのだと…

この明暗そのものを感じることこそ、
信仰そのものなのだそうです。
仁王門から先は院が点在…

根本中堂にて四寺廻廊満願…

四寺宝印は松島瑞巌寺
臥龍梅から作られたとか。
「佛法僧寶」
仏教で重んずる仏と法と僧。
すなわち三宝で、「佛」釈迦のこと
「法」釈迦の教え、
「僧」仏の弟子。


満願の地で色紙を頂く…
立石寺「信」
ちなみに中尊寺「慈」毛越寺「浄」
瑞巌寺「鼎」なんだそうです。

芭蕉の「閑さや」に戻ります。
奥の細道』の一文に、
「なるごの湯より
 尿前の関にかかりて、
 出羽の国に越えんとす」
とある。

河合曽良の『曽良旅日記』にも、
「五月十六日 堺田に滞留。大雨」
二人は尾花沢には5月26日まで
地元の豪商 島田屋八右衛門宅へ、
ただ屋敷では三泊ほど、
残りは養泉寺に宿泊したそうである。
客人を接待したかったに違いなかったが、
紅花の作業の真っ最中であった。

尾花沢滞在中、芭蕉が吟じた一句
「眉はきを 俤にして 紅粉の花」
眉はきとは、眉に付けた白粉を
払うための刷毛のこと、
は"おもかげ"と読む。

立石寺を二人が訪れることになったのは、
「殊に清閑の地なり、一見すべきよし」
尾花沢の豪商 島田屋八右衛門こと、
俳人 清風たちに薦められたからで、
もともと立ち寄る予定ではなかったとか。

立石寺眼下に流れるのは立石川
ほどなく最上川に合流します。
大石田での芭蕉の代表句、
「五月雨を 集て涼し 最上川」
最上川の水勢を感じて"閑さや"が
際立ったのやも知れません。

このブログの人気の投稿

ペットマーク考証① バットを持つ人

ペットマーク考証② ボールな人

「シンデレラ」ガラスの靴の秘密