ヒロシマ爆心地から350m〜旧日本銀行広島支店
広島の金融街を形成した
風格ある様式建築群…
唯一の生き残り。
1905年に広島出張所を設置し、
1911年に支店昇格、
業務拡大にともなって
新築されたこの建物は1936年築。
躯体は極めて堅牢…
爆心地からわずか380mに
あるにもかかわず往時の外観を
今にとどめていました。
設計は明治日本の建築家
第二世代にあたる長野宇平治。
広島でのワークは、
辰野金吾の助手として
日本銀行広島出張所(1905年)、
三井銀行広島支店(1925年)…
そしてこの建物を手がける。
竣工時は69歳と最晩年にあたり、
おそらく設計監修としての
役回りだったと想像されています。
長野は
「様式マニア」と言われた人。
ファサードはルネサンス様式。
中央に二層抜きの角柱が4本配、
柱頭装飾はイオニア式。
縦長の窓の矩形が強調、
よくよく見ると上げ下げ式の
スチールサッシなのです。
晩年の長野が手がけた
「大倉山記念館」に比べると
いたって外観は控えめ。
扉を開けると…
日本銀行窓口のご案内。
大空間に客溜り・窓口
吹き抜けの上部には、
漆喰の天井装飾がいまなお現存。
そしてトップライト(天窓)から、
日差しを注いでいました。
ロの字型の建物を示す
囲みの空間…
この下に地下躯体。
3階と2階の一部に火災が発生し
内部は焼失した一方で、
1階事務室や地下金庫等は、
奇跡的に火災を免れました。
ただ原爆投下時間は出勤途上で
あった職員も多く被害は激甚、
死亡者は37名、負傷者は15名。
地階の床もタイル貼り。
地下の金庫室も公開です。
保管庫…
おそらく戦後のものかと…
アメリカ製の金庫扉
金庫前廊下入口の鉄格子が
吹き飛ばされました。
エレベーターを軍事供出…
昇降路から爆風が
吹き込んだのでしょう。
「被爆70周年
広島平和記念資料館収蔵資料展」
がおこなれていました。
市民が描いた原爆の絵たち。
そして…Peace Art project
「平和と美術と音楽と」
音楽演奏ともに
短編映画の上映会。
1~2階の鎧戸は閉じられていました。
支店長室の木製の腰板、
被爆時の爆風で飛ばされた
窓ガラスの破片が
突き刺さった跡が残ります。
今も灯りを当てると奥にある
ガラスのかけらが光るとか…
市内で最も堅牢な建物で
あったこともあって、
広島財務局の首脳部らが
支店内に疎開していたそうです。
屋上中央の明かりとガラス屋根を
遮蔽するなど建物を強化。
実は被爆前日の午後に、
北隣りにあった
三和信託広島支店の建物は、
焼却防火用地として
取り壊されてたのです。
屋上中央部のガラス屋根は、
シャッター覆いとともに
飴のように曲がり大破…
ただ建物構造に異状はなく、
天井は落ちませんでした。
全市停電したため、電灯はつかず、
電話は不通、ガス、水道も使用不能。
ただ1か所、通用門脇の消火栓から
水が勢いよく出たと伝わります。
3階と2階の支店長寝室で火災発生、
3階は内部を全焼、
2階支店長寝室の火は
大事に至らぬうちに
消し止められたとか…
大事に至らぬうちに
消し止められたとか…
日本銀行広島支店の内部 米軍撮影
設置場所 : 中区袋町5番21号
爆心地から約350メートル
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、
爆心地から約350メートル
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、
原爆の強烈な爆風により、
外形は残ったものの内部は破壊され、
42人の犠牲者が出た。
市内の金融機関はほとんど壊滅したため、
日銀の内部を仕切り各銀行が窓口を設け、