九段下のタマネギあたり


"九段下 千鳥ヶ淵 
月の水面 坂道 光る玉ねぎ"


一つ手前の神保町駅と小川町駅の
真ん中あたりに泊まっていたので、
九段下駅から"光る玉ねぎ"の
向かい側の歩道から靖国神社へ。

神田神保町三丁目から往くと、
寿老人のようなのが
出迎えるのが「寿人遊星」とか。

「1986年ハレー彗星の
 地球接近を記念
し、
 人々の清福を望み、
 星と縁の深い"寿老人"を
 模して製作されたもの」
なんだそうで、
神田の魅力を記録した
絵本『かんだ彷徨』の浄財をもとに
千代田区に寄贈されたもの、
次の接近は2061年とか…。

九段北一丁目と九段南一丁目の間の
靖国通りをに通じる橋、
"俎橋"という名の由来は、
江戸時代に御台所町が
近くにあったことからの説と、橋
2枚の俎(まないた)を引いたような
構造の板橋であったとする説…、
古くは大橋・魚板橋とも
呼ばれていたとも伝わります。

俎橋児童遊園に佇まれますが、
児童遊具がないのがオモシロイ。

九段を上がると靖国神社

かつて千代田村は農村地帯、
そこに1606年に江戸城が
建てられました。
周辺の高台に役人のための
武家屋敷が建てられ、
9段の石垣を造ったことから
"九段坂"の名
が付いたそうです。

1872年の昇斎一景が描く
《東京名所三十六戯撰 九たん坂》
スイカやマクワウリが転げ落ちる、
急坂に足を取られて
派手にスッ転ぶ男の姿。

《東京開化三十六景 九段坂燈籠》
歌川広重(二代)の明治初期の錦絵。

1871年に建てられた高燈籠は、
文明開化のシンボルでもあり、
"新江戸タワー"とも言うべきもの。
明治新政府の威信を示すために、
夜も明るく灯されていました。
九段坂はもちろん、
夜の東京湾からも見えるほどで、
灯台としての役割を果たしていました。
現在ある場所に移設されたのが、
1930年の頃で九段坂も
コンクリート舗装されたそうです。

明治の浮世絵師 小林清親が描いた
《九段坂五月夜》は1880年作、
光と影を巧みに表現した
"光線画"と呼ばれる作風の代表作、
高灯籠が雨の夜に浮かび上がります。

靖国神社の境内に立つのが、
大村益次郎像です。
1869年6月に東京招魂社の
創建のための社地選定の行ったのが、
大村益次郎だったのだそうです。
戊辰戦争では新政府の軍務局判事、
軍制を洋式に改めるよう主唱、
そのことが攘夷主義者を刺激、
不満士族に襲われて重傷を負い、
186年11月5日大阪にて歿した。

益次郎像建立の発議は
1882年(明治15)のこと、
宮内省から御下賜金があり、
大熊氏廣に塑型の製作が
委嘱されたものです。

陣羽織をつけ左手に
双眼鏡をもち、
東北の方を望む姿…、
上野東叡山に立て籠る
彰義隊討伐の時の様子
と伝わりますが、
西郷隆盛像と視線を
合わせている
とも。

九段坂上で明治天皇により
創建されたのが1869年(明治2)、
戊辰戦争などの戦没者や
坂本龍馬、吉田松陰ら
幕末の志士たちの神霊が
合祀されたのが東京招魂社。
1879年6月に靖國神社へ改称、
別格官幣社となったのです。

高燈籠側の騎乗の像は、
近代の軍人像でも数少ない乗馬像、
大山巌像です。

1919年(大正8)に国会前庭に設置、
1948年 GHQにより一時撤去、
東京都美術館に預けられた後、
1969年に現在地に移されたという。

《大山巌顕彰碑》
大山巌(1842-1916)は、
従兄弟であり西郷隆盛の弟の
西郷従道と盟友関係にあった人物。
薩英戦争で江川太郎左衛門のもとで
砲術を習得したそうです。
日清戦争では第2軍司令官、
日露戦争では満州軍総司令官。
「陸の大山、海の東郷」と称された。

もうひとつの九段の像は、
長州の官僚の品川弥二郎。
品川弥次郎(1843-1900) は、
吉田松陰の松下村塾に入門。
長州藩士として戊辰戦争で活躍。
1891年(明治24)に内務大臣、
政治家として要職を歴任した人。

九段坂公園に像があるのは、
九段北に存在した練兵館で
剣術を学んだことによるとか。
高村光雲の監督によるもので、
原型作者は本山白雲が担った。

高灯籠を過ぎると田安門の奥に、
日本武道館の"光るタマネギ"。

"千鳥ヶ淵”の反対側の"牛ヶ淵"
九段坂に今は段でなく傾斜地ですが、
関東大震災の後の復興整備で、
大改修が行なわれたそうです。
九段会館テラスが聳え立っています。
1932年(昭和7年)2月に起工、
1934年(昭和9年)3月20日に
竣工した"九段会館"。
帝国在郷軍人会の主導で計画、
当時は"軍人会館"という
名が冠されていました。
コンペ実施の1等の
小野武雄の設計ですが、
コンペで示された「設計心得」に、
「五、建築ノ様式ハ随意ナルモ
 容姿ハ国粋ノ気品ヲ備ヘ
 荘厳雄大ノ
 特色ヲ表現スルコト」。
"帝冠様式"となったのも
うなずけます。
縦方向を強調した表現と
数々の装飾の調和など、
近代建築史においても
貴重な史料となっています。
竣工からおよそ2年後、
二・二六事件が勃発、
鎮圧するための戒厳司令部が
"軍人会館"であった
この地に設置されたのです。
外観は、地形に合わせて突出部分を
多くして変化に富んでいて、
外装タイルは震災復興期特有の
スクラッチタイル。
建物の隅部には、
細かい直線的なモチーフの
繰り返しが見られます。

建築物内部においても、
正倉院宝物殿の銀壺と類似したクロス、
ブロンズや鈴メッキが施された建具、
希少な大理石などの資材が
多く用いられています。

戦前の職人による漆喰装飾などの
設えがいまも受け継がれています。
正面玄関柱上部の 鬼神面 は
3Dスキャンを駆使して、
現代の素材で再制作されたものとか。
2011年3月の震災で被災し
閉業を余儀なくされていましたが、
地域のランドマークとして
2022年に"九段会館テラス"として
九段下で時代をこれからも
見守り続けていくようです。

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