大和郡山 豊臣秀長を辿る 大手門から大河ドラマ館へ
郡山城 追手門 は豊臣秀長が、 入城時期に築かれたものだ と言われています。 秀長なきあと 養子 秀保 、 増田長盛 とうけ継がれましたが、 関ケ原の戦いののちに、 西軍の敗北となり、 郡山城は徳川方に接収されて、 城は取り壊しとなり、 大手門も含めて多くが 伏見城に移されたました 。 現在のものは、 築城400年を記念して 1980年に復元されたもの、 五三桐 が施されています。 当時は" 一庵丸門 "(いちあんまるもん) と呼ばれたそうです。 豊臣秀長と秀保に仕えた家老、 横浜一庵 (桑山一庵)の 名前に由来しています。 1724年(享保9)3月11日、 禁裡守護の大任を帯びて 十五万石余をもって甲府城から 郡山に移封なった 柳澤甲斐守吉里 、 一庵丸門を" 梅林門 "と名を替えました。 追手向門櫓 。 追手門を守るための櫓で、 本多氏時代(1639-1723)は 大手先艮角 (うしとら) 櫓 と 呼ばれていました。 柳沢氏入城後(1724年)に追手向櫓に、 1873年(明治6)に取り払い。 記録によると、 下重は4間2尺に5間、 上重は2間四方の二重櫓と伝わります。 近鉄電車の電車からみえる城は、 追手向門櫓です。 線路沿いの道で実施されてたのが、 " 豊臣兄弟!大和郡山大河ドラマ館 "です。 DMG MORI やまと郡山城ホールで、 来年の1月22日まで開催の予定です。 秀吉、秀長、そして慶。 ただ俳優さんのサインとかは カメラNGです。 小一郎と秀吉の前立て 紛い物の平蜘蛛 蜘蛛が這いつくばっているような 姿に見えたので"平蜘蛛”の名。 月岡芳年 が描いた 平蜘蛛を割る松永久秀 。 江戸期の 浮世絵 では、 平蜘蛛釜を打ち壊し、 切腹するさまが描かれ… さらに戦後の描写には、 爆薬を仕込みともに爆散。 大河でもそんな感じでしたね。 ドラマ館の入り口前には秀長像。