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大和郡山 豊臣秀長を辿る 毘沙門曲輪に立つ城址会館

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毘沙門曲輪に立つ 城址会館 本丸天守台から毘沙門曲輪を望むと、 みえるのが城址会館です。 毘沙門曲輪や常盤曲輪は 本多氏が城主だった以前は 「二ノ曲輪」 と称されていたとか。 玄武曲輪には水堀が設けられ、 煙硝蔵が並んでいたそうです。 厩があったさらに西側の " 麒麟曲輪 "には 徳川綱吉 を 祀ったとされる 御霊屋 が 建てられていました。 城址会館 は1908年(明治41) 、 日露戦争の戦勝を記念して 奈良公園内の現県庁の 南側に建てられた 奈良県最初の県立図書館、 建設当初は 奈良県立戦捷記念図書館 。 背後に煉瓦造りの書庫や木造の 附属屋が接続していたようですが、 本館のみがここ郡山城内に移築、 1968年(昭和43)のことだったそうです。 移築前平面図をみると、 玄関ホールを入ると 右手に受付と閲覧室、 左手に新聞閲覧室・児童閲覧室。 車寄は向唐破風造、本瓦葺。 胴張りをもつ角柱を立て、 虹梁上には東大寺転害門を 模した板蟇股をつけています。 奈良時代から鎌倉時代の 建築意匠が多く採用。 内部には胴張りをもつ トスカナ式の柱 などの西洋意匠、 小屋内は トラス構造 により 補強されています。 設計は旧高市郡教青博物館なども 手がけた 奈良県技師の橋本卯兵衛 。 細長いすり上げ窓 は 本館の特徴ですが、 一部 紐が切れていて 上げ下げできなくなっています。 ボランティアガイドの方のお話だと、 市民会館や教育施設として 活用されてきとか… 1992年には屋根瓦のふき替え。 2006年から昨春までは 不登校児童・生徒向けの 学科指導教室としても使われたとか。 阪神淡路大震災を契機に 耐震基準が厳しくなり、 2階には上がれないそうです。 2階への踊り場にも 白い壁に大きな窓。 当時の内装は 漆喰壁 だったそうです。 左側に ひび割れ がみてとれます。 木部の傷みが激しく、 2階の欄干は一部が抜け落ちたとか。 樋(とい)がつまって 雨漏りも発生。 地震で傾いた屋根は鉄骨で支えられ、 傷んだ垂木には金属の板 がみえる。 地震で屋根の一部が傾くなど、 本格的な修理が避けられない状態。 多額の費用と時間がかかる中、 活用検討の委員会を発足させたが…・ 文化財保存活用係長いわく、 「 保存活用計画が出来るまで  2年はかかり、  改修工事の設計などは...

大和郡山 豊臣秀長を辿る 豊臣郡山城の前後

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郡山城跡公園にある鳥居。 柳澤神社 のもので、 堀を挟んで" 竹林橋跡 "。 いまは橋はなく堀も左右が 堰き止められています。 鳥居の向かいは 県立郡山高校 冠山学舎 、 ちょうど文化祭が行なわていました。 高校があるところも何度か、 発掘の対象になったようです。 江戸期後半は二ノ丸にあたります。 城郭の中心部を南東上空から 「郡山城の標1」 より大和郡山市発行 天正年間に織田信長の命を受けた 筒井順慶 により築城が始められ、 1585(天正13)年に豊臣秀長が入城、 豊臣政権の畿内統治の拠点として 大規模に整備されました。 《 絹本著色 筒井順慶像 》   奈良市・伝香寺蔵 筒井氏は1385年(至徳2)に 文献上に現れ、 興福寺衆徒の棟梁を務める、 大和でも有力な武士でした。 1549年(天文18)に 家督を継いだ 順慶 の時、 河内の 三好長慶 と対立、 劣勢となり筒井城を追われましたが、 織田信長の後ろ盾を得て、 三好家家臣の 松永久秀 を降伏させ、 その後自害に追い込みました。 こちら大河ドラマ館にあった、 紛い物の平蜘蛛です。 大和統治を命じられて順慶は、 筒井城を含むすべての城を破城、 郡山城に移りました。 しかし、 順慶が築いた郡山城の 遺構は確認されていません 。 信長死後は豊臣秀吉に従い、 大和統治を続けましたが、 天正12年(1584) に病で 亡くなりました。 竹林門跡 本丸には柳澤神社があります。 五代将軍 徳川綱吉 の幕臣、 柳澤美濃守吉保 が御祭神。 1724年(享保9) 柳澤吉里 が郡山に入部、 以降 明治維新まで柳澤家が この地を統治がしました。 柳澤吉保は吉里の父にあたります。 大和郡山といえば金魚 。 1724年 郡山藩主となった 柳澤吉里が甲斐の国から 持ち込んだのが始まり とか。 幕末の頃になると、藩士の副業として、 明治維新後は、 職禄を失った藩士や農家の副業として 盛んに行われるようになりました。 もっともこれには最後の大和郡山藩主 柳澤保申 のおしみない援助が あったことが大きいと言われています。 柳澤神社の後方には 天守台があります。 公園内 柳沢文庫では企画展 「 後世に受け継がれる郡山城と城下町 -秀長城主時代からの変遷- 」 「和州郡山城郭絵図」 (正保年間)  国立公文書館・内閣文庫 蔵 ...

大和郡山 豊臣秀長を辿る 郡山城

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大河ドラマで沸く大和郡山へ 近鉄郡山駅は五七桐の幕。 駅前にあるこれ交番です。 城址公園内に立つ郡山城天守台 城の中心に位置する天守台は、 崩落の危険性があり 立入禁止となっていたようです。 天守の存在は、実在していたかも 諸説紛々となっていたのですが、 2014年の礎石発見で、 実在が確認されたのです。 礎石には1m前後の自然石、 礎石が取り外された部分には 礎石を支えた根石がみられ、 石があった位置がわかります。 礎石は列状に並べられていて、 上には土台となる木材が 横方向に置かれ、 その上に柱が立てられたとこと。 豊臣大坂城金箔瓦と 同じ笵(文様の型)を用いた軒丸瓦、 聚楽第に類例のある文様の 軒平瓦などが出土。 瓦の特徴から、 天守礎石は豊臣政権期と 考えらています。 天守は関ヶ原の戦い後に解体。 以後、郡山城では天守は 再建されなかったようです。 郡山城の石垣で特徴的なのが、 転用石材の多用です。 本来は異なる用途の石材を 石垣の構築部材として 転用したもので、 こちらは「伝・羅城門礎石」。 こちらも著名な「逆さ地蔵」。 全高110cm以上あり、 過去の調査で 大永3年 (1523)の銘文を確認。 精緻に仕上げられた仏身や 仏具が観察できます。 仏身が浮き彫りされた面を 下に向けて頭部が 奥に沈むような角度で配石。 他にも、石仏や寺院などの礎石、 五輪塔や宝篋印塔など、 板碑など石塔婆、 石灯籠、石臼などの 雑器類など多種の石材が 含まれています。 いずれも追手東隅櫓で開催の、 「秀長と郡山のあゆみ」展より。 実は… 興福寺の塔頭である多聞院に伝わる 『多聞院日記』には、 天正15年から17年に 普請に用いる石材を集めた 記録が集中しています。 薬師寺での採石を禁じる記録もあり、 城普請に際して周辺から石材を 集めていたことがわかっています。 豊臣期の遺構は、 本丸の天守礎石や土器埋納土坑をはじめ、 追手向(おおてむかい)櫓 常盤(ときわ)曲輪の礎石建物など、 城郭中心部の各所で確認されており、 秀長による築城の実態を今に伝えています。 今後も調査を継続することで、 地中に眠る秀長の足跡が さらに解明されることが期待されます。 現存最古の郡山城図は正保年間の 本多家が城主時代の《和州郡山城図》のみ、 豊臣政権時代の郡山城の様子が 窺える文献は残念ながらあり...