岡山県北の雄都 津山たび〜城西浪漫館

津山市城西地区のランドマークとして、
2020年4月より城西まちづくり協議会が
指定管理者となって活用されている
"まちの駅城西浪漫館"へ。

中島病院の敷地にあり、
元は中島病院旧本館であったもの。
大正から昭和にかけ名建築を手がけた、
津山の名棟梁 池田豊太郎の設計。

表面を掻き落としたモルタル壁仕様、
正面玄関はコリント式柱で支えられた
バルコニーを設けられていて、
上部にドーム屋根を飾ります。

4本のコリント柱

掻き落としのモルタル壁

石貼りの入口飾り、
梁や庇に貼られたレリーフなど、
意匠を凝らした玄関周りです。


田町の西の端で南は坪井町という
立地なので津山駅からは遠いが…
当時は鉄道は津山口まで、
建設当時は西今町が玄関口でした、
坪井町が一番の繁華街だったそうです。

玄関横にある胸像は、
中島病院創始者の中島琢之。
中島病院は中島琢之の父である、
医師 中島大次郎が津山市高野本郷に
1878年(明治11)に内外医術院を
開院したのが始まり。

2階にあった中島大次郎のパネル解説。
中島大次郎は現在の
津山市高野本郷の医師で、
津山市街の北方 籾保の仁木永祐や
倉敷の石坂堅壮に医術を学んでいます。
21歳で内務省医術開業免許を取得し、
郷里で開業。
のちに苫田郡医師会長や高野村長を歴任、
津山市域の医療発展に貢献した人物です。

こちらが中島琢之 医師、
1885年3月29日生まれで、
医師 大次郎氏の長男。
関西中学から一高に進み、
東京帝国大学医科大学を卒業、
大学で教鞭を執り、
付属病院の内科部長として活躍。

郷土の熱望に応えて帰郷したのは、
1914年(大正3) のことでした。
工事ぶりを眺めながら、
帰郷を決意したとも伝わります。

病院には列をなすほど患者さんが
詰めかけたが、東京に行くことの
意思を知人に知らせたことが、
伝わったとか…。
「せっかくの名医を失っては大変」と、
妹尾銀行の銀行員発案で
約5万3千円を借金し、
旧本館は完成したのだそうです。

後に衆議院議員ともなった
妹尾順平はとりわけ熱心で、
レントゲンなど当時の最新機器を
備えた病院を造ったのだそうです。


琢之はその後10年かけ、
建築費を返済しましたが、
「これで東京にでるチャンスを失った」
と冗談交じりに話したそうです。
旧本館は1970年頃まで実際に
診察に使われていたそうです。
建設当時は西今町が玄関口でした、
坪井町が一番の繁華街だったそうです。

玄関横にある胸像は、
中島病院創始者の中島琢之。
中島病院は中島琢之の父である、
医師 中島大次郎が津山市高野本郷に
1878年(明治11)に内外医術院を
開院したのが始まり。

2階にあった中島大次郎のパネル解説。
中島大次郎は現在の
津山市高野本郷の医師で、
津山市街の北方 籾保の仁木永祐や
倉敷の石坂堅壮に医術を学んでいます。
21歳で内務省医術開業免許を取得し、
郷里で開業。
のちに苫田郡医師会長や高野村長を歴任、
津山市域の医療発展に貢献した人物です。

こちらが中島琢之 医師、
1885年3月29日生まれで、
医師 大次郎氏の長男。
関西中学から一高に進み、
東京帝国大学医科大学を卒業、
大学で教鞭を執り、
付属病院の内科部長として活躍。

郷土の熱望に応えて帰郷したのは、
1914年(大正3) のことでした。
工事ぶりを眺めながら、
帰郷を決意したとも伝わります。

病院には列をなすほど患者さんが
詰めかけたが、東京に行くことの
意思を知人に知らせたことが、
伝わったとか…。
「せっかくの名医を失っては大変」と、
妹尾銀行の銀行員発案で
約5万3千円を借金し、
旧本館は完成したのだそうです。

後に衆議院議員ともなった
妹尾順平はとりわけ熱心で、
レントゲンなど当時の最新機器を
備えた病院を造ったのだそうです。


琢之はその後10年かけ、
建築費を返済しましたが、
「これで東京にでるチャンスを失った」
と冗談交じりに話したそうです。
旧本館は1970年頃まで実際に
診察に使われていたそうです。

旧中島病院本館(城西浪漫館)
建築年:1917年
設計 :池田豊太郎
構造 :木造2階建、鉄板葺一部スレート葺
登録有形文化財(建造物)