大倉喜八郎さんちの祇園閣を知る②


祗園閣入口の青銅製内扉の鶴

鉾の頂部に羽をひろげた鳥は、
鳳凰ではなく鶴…

こちら精密な模型…
  
大倉集古館に保管されている模型と
伊東忠太が遺したと写真には、
参照したと考えられる山鉾。
写真は鮮明ではありませんが、
フォルムから函谷鉾月鉾
鶴といえば放下鉾やも知れません。

屋根は銅板葺きであるのは、
大倉喜八郎が金閣、銀閣に次ぐ
"銅閣"として作ったためだとか…
銅閣と呼ばれるようになった
肝心の経緯については、
喜八郎を長年研究してきた
東京経済大学の村上勝彦 博士は、
「大倉や伊東の発言からは
 確認されていない」
とか。
本山龍池山 大雲院住職
佐藤善穣さんからも、
「『金閣、銀閣に続く銅閣だ』と
 洒落も交えて言ったようだ」


京の三閣」といえば金閣銀閣
そして西本願寺の飛雲閣を指します。
五輪メダルのように金銀銅とは
いかないようです…

銀杏の葉の合間に飛雲閣の最上階。
通常は非公開でして、
2017年7月 ~ 2020年4月の間、
修復工事がおこなわれていました。
2021年4月には特別公開されていたとか。

大倉家の家紋の"鶴"に因んだ
という説もあるが、
真相は喜八郎の幼名の鶴吉
号は鶴彦を使っていたことが所以。
ちなみに護国寺の墓所には"溝口菱紋"、
新発田藩主・溝口氏の家紋で、
新発田市の市章にも使われています。
大倉喜八郎は新発田の出身です。
晩年に鶴翁(かくおう)と呼ばれました。

ちなみにこの鶴も人の高さより、
少し大きいようで…
伊東忠太建築作品』(1941年)にも、
このような図面をみることができます。
伊東忠太の大倉喜八郎追悼文は、
1929年発行の『鶴翁餘影』に
趣味の鶴彦翁」として綴られています。

「私の知っているのは
 私の専門の関係から、
 建築に関する翁の趣味の一端である。
 ある時私の教室へ翁のもとから
 電話がかかった。
 それは今直ぐに向島の別墅※へ
 来てもらいたいと云うのであった。
 さっそく行ってみると、
 翁は莞爾※として握手をされた後、
 次のごとき空前絶後の注文を提出された。

『ある風雨の日に、
 私の傘が風に捲かれて、
 漏斗狀に上向きに反転した。
 その形がいかにも
 面白かったので忘れ難い。

 その形をそのまま建築にして
 造ってもらいたい。』

京都の真葛ヶ原に小さな別荘
 建てようと思う。
 その敷地内に祇園の鉾の形
 そのまま建築化したものを
 造ってもらいたい。
 目的は私の記念事業の一つとして、
 京都の全市を一眸※の下に
 瞰視すべき高閣を作り、
 京都名所の一つにするのだ』」

※一部現代かなづかいに改めています。
【別墅 べっしょ】しもやしき。別荘。
【莞爾 かんじ】 喜んでにっこり笑う様子。
【一眸 いちぼう】一望に同じ。

最上階の扁額には「萬物生物光輝
大倉喜八郎の筆によるものです。
よく茶席でみられる唐代以前の
漢詩を出典とされるものでして、
気分一新のときに相応しい句。
「万物は自ら光り輝いている。
 人間一人一人も当然輝いている。
 それは己にとって都合の良い人も物事も、
 都合の良くない人も出来事も同じ事。」

そんな解説をみつけることができました。

四閣、五閣、六閣という話に…
大徳寺の塔頭 芳春院の庭園内にある
呑湖閣(どんこかく)は、
どんこ→どうかく(銅閣)の洒落です。
由縁は楼閣から比叡山の向こうにある
「琵琶湖をも飲み干す」くらいの眺望だ!
そんな思いによって名付けられたそうです。
1617年 前田利長が父・利家の昭堂とも、
医者・横井等怡(よこいとうい)の発眼とも…
1796年の寛永の大火によって焼失し、
1815年に再建されたと伝わります。
芳春院は利家の夫人・松子の法号に由来。

東福寺 常楽庵 開山堂
伝衣閣(でんねかく)が五閣目、
開山堂の屋上部分が閣となっている構造。
三国伝来の布袋和尚像
安置されているとのこと…
伏見人形のルーツとも言われます。

ちなみに内部の拝観は不可ですが、
通天橋を渡って祖堂へ向かうと、
その姿をみることができるのです。

で…祇園閣は六番目に列します。
京の六閣」のなかで特別公開とはいえ、
楼閣に登れるのはここ祗園閣のみです。
1階の「祇園閣」の文字は
西園寺公望揮毫でして、
西園寺家と金閣寺には由縁があり、
鎌倉時代の金閣寺の地には
西園寺公経北山第が在りました。
おそらく
大倉喜八郎氏は財界の雄でしたので、
大勲位公爵と面識が当然あった筈。
金閣と銅閣の関係は、
この扁額にワケがあるのかも
知れません。

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