興福寺五重塔がある奈良のこと


興福寺五重塔その初層内陣特別公開
行ってきました!!
前期期日は今日11月23日まで
来年3月の後期特別公開を終えると、
奈良の日常にあった風景が、
しばらく…いや10年オアズケとなる。

猿沢池からもこんな情景を
見上げられなくなるわけで…
修理に入る前に #わたしの興福寺五重塔
インスタフォトコンテスト

いくつか投稿してみました。

中金堂の落成など近年は多くの
観光客がおとずれる興福寺ですが、
近代国家の幕開けで状況が一変しました。
神仏分離令が発せられ、
明治維新になるとお寺への庇護は消え、
いわゆる"既得権益"が消滅したのです。
寺の困窮は多くの僧侶が還俗することに、
深刻な後継者不足に陥るのです。
日吉大社の社僧は抵抗を示したそうですが、
興福寺の見極めと対処は驚くほど素早く、
ある意味潔かったとも言えます。


塔頭の大乗院・一乗院が、
連名で鎮撫総督宛に"復飾願い"を提出。
「お上には逆らわないので、
神職としての地位を保証してほしい」

と懇願したのです。

興福寺の僧侶は「新宮司」の地位に、
春日大社に納められていた仏具類は、
すべて興福寺が引き取るよう命じ、
完全に神仏を分離したのです。
興福寺から130人余りの僧侶がいなくなり、
広大な境内地と七堂伽藍が残されたのです。


多くの仏像が失われたのは南都焼討
そう信じているのも間違いはないけれど、
金堂などは警察の屯所になったそうで、
堂内で警官たちは冬場は焚き火の暖、
薪不足を天平仏像で賄う
そんなことも少なくなかったとか。

ではなぜ五重塔は生き永らえたのか?
ネットで調べると「25円で競売の五重塔」、
落札者は塔を燃やして金属スクラップで
利益を得ようとしたのだそうで、
住民反対により見送られたのだそうです。
文化財を守ろうというのではなく、
住民たちは"延焼を恐れた"というのも一説。

紆余曲折を経て奈良の風景となった五重塔、
ここからは塔の話をします。
塔は釈尊の舎利を納める墓標でして、
仏教寺院においては権威の象徴でした。
塔を建てることは仏法の護持であり、
大きな功徳とされたのです。

初層以外は吹き抜けになっていて、
一階建ての五層建築という造り。
塔の中心には心柱が心礎上に、
15メートルもある相輪を支えます。
実は心柱というのは日本古来のもの、
他国のストゥーパ(塔)には見られないとか。


四天柱の各方向、
東に薬師浄土変、南に釈迦浄土変、
西に阿弥陀浄土変、北に弥勒浄土変が
安置されていたと言われ、
当時日本で最も高い塔だったのです。
塔本四仏は応永33年(1426)上棟の
現在の塔に伝わったもの。

南方に釈迦如来坐像
青獅子に乗る文殊菩薩坐像、
白象に乗る普賢菩薩坐像。

北方に弥勒如来坐像
法苑林菩薩坐像、大妙相菩薩坐像。

西方に阿弥陀如来像
観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像。

東方に薬師如来坐像
日光菩薩坐像、月光菩薩坐像。

台座の墨書や「大乗院寺社雑事記」から
五重塔再建まもなく享徳から寛政、
つまり1460年ごろに造仏されたもので、
塔初層の四方仏が選ばれたのは、
奈良時代に隆盛した顕教※における配置。
いうなれば室町期の興福寺復興は、
"奈良ルネッサンス"だったのです。

興福寺に残るもうひとつの塔 三重塔
康治2年(1143)に崇徳天皇の中宮の
皇嘉門院聖子が建て、
治承4年(1180)に焼失したものの、
間もなく再建されたと伝わります。

こちら興福寺南円堂
本尊の不空羂索観音菩薩は、
鹿皮を身にまとっています
神に仕える鹿への信仰、
つまり氏神である春日社との繋がり、
藤原氏の強い信仰は灯籠の
藤下がりの紋にも伝わります。

虎次郎のインスタ投稿

晴れて映えたかイナカ。


顕教とは?
密教に対する概念。
真言宗では自らの宗の教えと他の宗の教えとを、
密教と顕教に分け、密教に思想的優越性を与えた。
密教とは法身(ほっしん)の大日如来が
自らの悟りの世界をそのまま説いた教えで、
けっして表面上では知りえない秘密の教えである。
これに対し、顕教とは人々の能力とか性質に従って、
報身(ほうじん)、応身(おうじん)により説かれたもので、
迷いを除き悟りを開く教え、あるいは修行をして
その結果悟りを開く教えといわれている。
密教では自らの教え以外は顕教であるとしている。

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