かごしまゆ④ かごしま異人館
白ペンキ塗 木造2階建ての
モダンな西洋館…
異人館という愛称で親しまれる。
鹿児島のここかしこに、
こんな顔出しボードが
ありました。
「旧鹿児島紡績所技師館」
島津忠義がイギリスから
紡績機械を輸入、
日本初の洋式紡績所を作ったとき、
イギリス人技師ら
7名の宿舎として建設されたもの。
多面形のポーチは
八角形の半分が表に、
4面にはバルコニーで、
その全ての窓が透明ガラス、
当時の日本には無かったもの。
あの西南戦争では、
傷病者の救護施設にも使用、
1897年(明治30)に
閉鎖されました。
開口部はアーチ型が採用、
屋根の小屋組は全て尺貫法。
しばらくは、銀座煉瓦街設計の
トーマス・ウォートルスの
手によると見られていたが、
奄美大島で製糖工場の建設に
あたっていた時期と重なるため、
設計者は不詳となっています。
周囲は回廊。
こちらは裏手、
オリジナルを
留めているのかも?
ただ、少なくとも紡績所に
関係したイギリス人が
設計・指導ということに
違いありません。
イギリスで設計され、
日本の寸尺の技術で
完成したものです。
異人館の起工した直後、
イギリス公使パークスの通訳
アーネスト・サトウが来鹿、
技師の仮宿舎に
滞在したそうです。
「薩長と友好関係にあることが
イギリスにとって幸福である」
サトウはそう考えていたそうです。
通気孔
2階へ
2階もぐるりとベランダ。
寝室の家具はオリジナルでは
ありませんが…
契約書によれば、
19世紀後半のイギリスの家具を
技師たちが持ち込んだと
考えられています。
集成館に関する展示…
ほど近くに紡績所跡
急逝した斉彬は、
洋式帆船建造のため、
帆布を自前製作を目指し、
紡績事業の必要性を
説いていたそうです。
反射炉や蒸気船などに
関わっていた
石川確太郎※は、
12代藩主忠義に紡績事業の
必要性を伝えた人。
やがて機械の一部を
大阪・堺に移されたそうです。
関西の紡績業のルーツ、
ここ鹿児島にありました。
※石川確太郎とは?
石河正竜 (いしかわ-せいりゅう)
幕末-明治時代の洋学者、紡績技術者。文政8年12月19日生まれ。
江戸で杉田成卿(せいけい)に蘭学をまなび、長崎に遊学。
安政3年鹿児島藩につかえて反射炉築造にかかわり、
同藩堺紡績所の設立,運営にあたる。
維新後は大蔵省にはいり、各地に紡績工場を建設した。
大和(奈良県)出身。前名は山田正太郎。確太郎は通称。