鎌倉古道 十二所神社に詣でる 兎の彫刻のなぞとき


朝夷奈切通を通じて鎌倉へ
バス通りを跨ぐと"十二所神社"。
祭神は天神七代地神五代
合わせで12ということ。

熊野大社では、
夫須美大神(伊邪那美大神)、
速玉大神(伊邪那岐大神)、
家津御子大神(素盞嗚尊)、
天照大神、忍穂耳命、
瓊々杵尊命、彦穗々出見尊、
鵜葺屋葺不合命、軻遇突智命、
埴山姫命、彌都波能命、
稚産霊命の十二柱を起っています。
熊野神がイザナキ・イザナミ・スサノオ、
天照大神からの天津神、
イザナミの最後の子神です。

鎌倉の十二所神社では、
イザナキ・イザナミ以前の
神代七代
(かみよななよ)が
"天神7代"とされ、
天照大神系統で神武天皇
直前までを"地神5代"
としているようです。

明治以前は"熊野十二所権現社"と
呼ばれていたそうです。
"権現"とは本地垂迹思想により、
権は仮のという意味を表します。
すなわち"仏が仮の姿で現れた"のが、
神道の神様であるという考え方です。
熊野神社の十二の権現は、
熊野比丘尼によって中世(12~16世紀)に、
広められたもので、
そのうちのひとつと考えられます。

はっきりした創建は不明ながら、
かつては同じ十二所にある
光触寺の境内社であったもので、
1838年に現在地に遷座しました。
寿永元年(1182)、
北条政子の出産で奉幣使が派遣、
二代将軍 源頼家の誕生の折、
神馬が奉納されたとも…

社伝によれば弘安元年(1278)の創建、
『相模風土記』稿に
「按ずるに光觸寺境内に
 熊野十二所の社あり、
 是を村の鎮守とす」。
『十二所権現社再建記』には、
天保8年に明王院別所恵法が
社頭再営を志し、
天保9年(1838)現在地に
再建されたとされています。

社殿の柱には兎の彫刻
熊野権現なら八咫烏なのでは??

なぜ兎なのかは調べても
よくわかりませんでした。
古来中国から伝わってきた思想として、
太陽には烏が住み、
月には兎が住む
というものがありますが、
兎を単独で押し出したりしないのです。
鎌倉の東端にあるため、
東=卯=兎
が掲げられたのでは
という説がありました。

本殿裏手"やぐら"に祠。
向かって右が"宇佐八幡"で、
左が"疱瘡神"です。
天然痘ウイルスは6世紀半ば頃、
日本に流入したもので、
蔓延に対して"疱瘡神送り"が
各地で行われました。
鐘や太鼓や笛を奏でながら
村中を練り歩く"疱瘡囃子"などを
行う土地も多かったようです。

実は兎神は疱瘡神と一緒に
祀られることがある
そうです。
あくまで仮説ですが本殿の兎は、
よく見られる意匠で、
兎と波が組み合わされます。
波と合わせることから、
火災除けにも用いられます。

こちら北野天満宮の白兎
白兎神社HPによると、
「白兎というのは、
 実は野に住む兎でなく、
 神話時代にこの地方を治め
 信望の高かった一族
のこと…」

和邇の大軍と淤岐ノ島で戦った。
『古事記』には和邇の大軍が
押し寄せた様を「頭を並べて」
「和邇の頭を数えつ、飛んだ」と。
負傷して苦しんでいる白兎の一族が、
大穴牟遅命(大国主命)に助けられ、
後に大穴牟遅命と協力して
「わに」を討伐してこの地方を治めた
大穴牟遅命には八上比売を
嫁とらせたというのです。

十二所神社の彫刻に彩色はありませんが、
波のなかにいるのは「わに」の姿。
ワニではなくサメのことで、
広島県三次市や庄原市などでは、
"サメ料理"として食されています。
サメはアンモニアを多く含み
日持ちがすることから、
山間部での貴重な海の幸でした。

熊野権現についても兎と繋がりが
あるようです。
熊野の神様のお使いは"八咫烏"。
太陽の中に住む霊鳥が八咫烏で、
祇園祭後祭の"大船鉾"には、
太陽を象徴する八咫烏
春を表す牡丹が西面に。
東面に飾られるのは
汀(みぎわ)に兎」。
日本各地で鉾や的に
太陽と烏、月と兎
"白兎伝説"とのつながりもあり、
この社にあらわされたのかと。

こちら"山の神"
神奈川県から山梨県へかけて
正月 21日の行事に、
山の神の冠落としといって、
篠竹で弓矢をつくり
山の神に供えるのだそうです。
神は冠の落ちるのもかまわず
弓を射るので、
矢に当たるかもしれず危険で
山へは行けぬ日なのだとか。

バス停"十二所神社"より
いざ鎌倉へ。

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