岐阜をつくねる③ 板垣曰く…自由ハ永世不滅


自由民権運動を推し進め、
後に大隈重信とともに
日本最初の政党内閣を組織した
板垣退助の像が金華山に立ちます

碑石には"板垣退助君遭難地"、
国会開設の詔が出されたのが、
1881年(明治14)10月18日のこと、
10年後にむけて自由党総理
いわゆる党首に就任したのは、
11月9日のことでした。
東海道遊説で静岡・浜松を経て、
3月29日に名古屋で演説後、
4月5日に岐阜の旅館に到着。

板垣君遭難之図
 1882年 一陽斉豊宣 画

4月6日午後1時、
現在の岐阜公園にあった
神道の布教所"中教院"で演説。
会場から宿舎に向かおうと
入口を出た瞬間に短刀を持った
刺客に襲われ格闘となり、
板垣は胸や手などを負傷

撰文は吉田茂 総理大臣の揮毫
「先生夙唱自由説 民権民主済時難
 算來明治功臣富 将相全才誰有知
 題板垣先生像 後進 吉田茂謹書」
1950年5月3日に除幕には、
吉田茂をはじめ板垣ゆかりの
政治家が列席したのです。

現在の板垣像は二代目で、
初代像は眼科医で衆議院議員と
なった山田永俊の呼びかけにより、
岐阜、東京の自由党有志44人が
発起人となり建立されたもの。
両手を下ろして胸を張り
正面を見据える初代のポーズ

"右手を上げたスタイル"とは
違っているのです。
ちなみに二代目像は、
山田永俊の孫にあたる
山田久枝さんが除幕を務めました


板垣君遭難実記 岐阜中教院の場
 1891年 香朝楼 画

川上一座の芝居絵
板垣退助役の青柳捨三郎の名の横に、
岩田庄之助の名が後刷。
岩田は一座で川上や青柳らに
次ぐ存在だったそうで、
上演のときの代役だったのかも。

「板垣死すとも自由は死せず」
この言葉が板垣自身が残したのか?
板垣のケガは、遭難後10日ほどで
関西に移動できるほどで、
重傷でではなかったそうです。
ただ一文に象徴せれるような
劇的な要素が強調され伝播、
自由民権運動にある種の
弾みをつけたエピーソードへ。


事件の芝居化が一躍を担います
事件直後の翌年の明治15年、
生々しい事件として舞台上で
繰り広げられたのです。
1891年=明治24年の上演は、
その背景が少し違っていました。
第1回衆議院選挙が実施
板垣退助が総理に推戴

板垣の言葉に戻ります…

岐阜県御嵩警察署 御用掛の
岡本都嶼吉という人が署長に提出の
探偵上申書」というものが、
残されています。
「板垣が先に会場を退出し、
 ちょうど玄関にたどり着いた頃、
 玄関前が騒然となり、
 さらに何かが地上に倒れる音が
 聞こえてきました。
 岡本は何事かと思い
 現場に駆けつけたところ、
 板垣が起き上がり出血しながら
「吾死スルトモ自由ハ死セン」」と…

佐賀暴動記ノ内 甲の浦の場
 1891年 香朝楼 画

川上音二郎一座は東京でも
「壮士芝居」を成功させました。
政治活動に携わる青年を
"壮士"と呼ぶのですが、
川上音二郎は自由党壮士でした。
長らく求められていた憲法と国会
実現の段階で過去のドラマチックな
板垣遭難事件を舞台に上げた
のです。

公文別録・板垣退助遭害一件…』
という簿冊資料が綴じられています。
その一つの供覧文書に、
板垣が刺客に対して、
自分が死ぬことがあったとしても
「自由ハ永世不滅ナルベキ」と笑った、
と記録されているそうです。
「板垣死すとも自由は死せず」
私たちがよく知る
コトバへと昇華されたのだと…
二代目像の板垣は"自由の行方"に、
エールを送っているのかも。

※このブログは土屋桃子 さんの
 以下論文を参考にしました
板垣退助遭難の芝居 :
  明治十五年の作品を中心に

 2012年「岐阜大学国語国文学 38号」

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