"吉野をよくみる"その2 金峯山本堂 蔵王堂へ

金峯山寺は役行者様によって
開かれたとされています。
為政者たちが多く訪れたことで、
より聖地にもなった"吉野”。
"金峯山"とは
吉野山から大峯山に至る峰続きのこと、
修験道関係の寺院塔頭がいまも軒を
連らねていました。

金峯山寺の総門である"黒門"、
高麗門という城郭に使われた
様式による構えとなっています。
公家大名といえどもこの門で、
槍を伏せ馬をおりて通行したという
格式を誇っていました。
現在の黒門は1985年に、
金峯山寺本堂蔵王堂の
大屋根大修理にあわせて
改築されたものです。

黒門からの急坂を登りつめると
銅鳥居(かねのとりい)が
聳え立っていまっした。
高さ約7.5m、柱の周囲約3.3m、
全銅の鋳造ものです。
1348(正平3)年に
高師直の兵火で焼失したあと、
室町時代に再建されたものです。

扁額には"発心門"とあります。
発心・修行・等覚・妙覚の
四門が山上ヶ岳までにあるとか…
最初の門をくぐるごとで、
行者たちは冥土にむかい、
俗界を離れて修行する
決心を強めたそうです。

門のそばに"行者堂"がありました。
『続日本紀』によると、
役行者は舒明天皇6年(634)に
大和国で誕生されたとあります。
平安時代編纂の日本の正史である
『続日本紀』に記されているので、
役行者は伝説上ではなく、
実在の人物ということとも、
みることができます。







金峯山寺の総門である"黒門"、
高麗門という城郭に使われた
様式による構えとなっています。
公家大名といえどもこの門で、
槍を伏せ馬をおりて通行したという
格式を誇っていました。
現在の黒門は1985年に、
金峯山寺本堂蔵王堂の
大屋根大修理にあわせて
改築されたものです。

黒門からの急坂を登りつめると
銅鳥居(かねのとりい)が
聳え立っていまっした。
高さ約7.5m、柱の周囲約3.3m、
全銅の鋳造ものです。
1348(正平3)年に
高師直の兵火で焼失したあと、
室町時代に再建されたものです。

扁額には"発心門"とあります。
発心・修行・等覚・妙覚の
四門が山上ヶ岳までにあるとか…
最初の門をくぐるごとで、
行者たちは冥土にむかい、
俗界を離れて修行する
決心を強めたそうです。

門のそばに"行者堂"がありました。
『続日本紀』によると、
役行者は舒明天皇6年(634)に
大和国で誕生されたとあります。
平安時代編纂の日本の正史である
『続日本紀』に記されているので、
役行者は伝説上ではなく、
実在の人物ということとも、
みることができます。

程なくゆくと無骨な工事覆い…
二王門は2028年度の完成を目指し、
解体大修理事業の真っ最中です。

重要文化財の立札は"仁王門"とあり、
工事看板などは二王門となっています。

二王門は2028年度の完成を目指し、
解体大修理事業の真っ最中です。

重要文化財の立札は"仁王門"とあり、
工事看板などは二王門となっています。

金剛力士立像は、
仁王門の完成まで
奈良国立博物館にお預けと
なっていまして…
間近にみることができます。

金峯山寺の本堂である蔵王堂へ

日本で二番目に大きな
国宝の木造古建築です。
一番目は東大寺大仏殿です。

高さが34m、幅が36m、檜皮葺。
現在の堂は天正20年(1592)再建、
落雷や戦火などで5回の焼失もなお、
再建が繰り返されたことは、
まぎれもなく蔵王権現への
人々の篤い信仰心によるものです。

豊臣秀吉との逸話が残っています。
再建されてから二年後、
秀吉は徳川家康、前田利家、
伊達政宗などの大大名衆を引き連れて、
総勢五千人ともいわれる規模で
大花見をしています。
しかし数日にわたって
雨が降り続いたため、
なかなかお花見ができなかったとか…

悪天に耐えかねた秀吉
「もし明日、晴れなければ、
吉野全山を焼き討ちにするぞ」と。
吉野の多くの寺院で
晴天祈願がなされたかいもあってか、
翌日は晴天になったそうです。

仁王門の完成まで
奈良国立博物館にお預けと
なっていまして…
間近にみることができます。

金峯山寺の本堂である蔵王堂へ

日本で二番目に大きな
国宝の木造古建築です。
一番目は東大寺大仏殿です。

高さが34m、幅が36m、檜皮葺。
現在の堂は天正20年(1592)再建、
落雷や戦火などで5回の焼失もなお、
再建が繰り返されたことは、
まぎれもなく蔵王権現への
人々の篤い信仰心によるものです。

豊臣秀吉との逸話が残っています。
再建されてから二年後、
秀吉は徳川家康、前田利家、
伊達政宗などの大大名衆を引き連れて、
総勢五千人ともいわれる規模で
大花見をしています。
しかし数日にわたって
雨が降り続いたため、
なかなかお花見ができなかったとか…

悪天に耐えかねた秀吉
「もし明日、晴れなければ、
吉野全山を焼き討ちにするぞ」と。
吉野の多くの寺院で
晴天祈願がなされたかいもあってか、
翌日は晴天になったそうです。

石柵に囲まれた中に四本の桜の木、
元弘3年(1333)閏三月三日、
後醍醐天皇の
第二皇子 大塔宮護良親王が
北条幕府の大軍に攻められて、
吉野山に立て籠ったとき、
蔵王堂を本陣とし落城に際して、
四本桜のある前庭で、
最後の酒宴を開いた地。
後世桜が植えられ、
大塔宮御陣地として
記念されている場所。

柵の中にある青銅の灯籠、
浄祐・妙久禅尼夫妻が施主として
文明3年(1471)に寄進したもの。
銘文によれば制作者は
「和州下田住大工左衛門助」、
奈良県香芝市下田では、
梵鐘や燈籠、
明治以降は鍋の産地として
鋳物師による生産活動が
続けられてたところです。
室町期の鋳造の秀作として、
国の重要文化財に指定です。

蔵王堂の大きな提灯…

手前の蟇股彫刻が秀逸。

いわれのある物語が
元弘3年(1333)閏三月三日、
後醍醐天皇の
第二皇子 大塔宮護良親王が
北条幕府の大軍に攻められて、
吉野山に立て籠ったとき、
蔵王堂を本陣とし落城に際して、
四本桜のある前庭で、
最後の酒宴を開いた地。
後世桜が植えられ、
大塔宮御陣地として
記念されている場所。

柵の中にある青銅の灯籠、
浄祐・妙久禅尼夫妻が施主として
文明3年(1471)に寄進したもの。
銘文によれば制作者は
「和州下田住大工左衛門助」、
奈良県香芝市下田では、
梵鐘や燈籠、
明治以降は鍋の産地として
鋳物師による生産活動が
続けられてたところです。
室町期の鋳造の秀作として、
国の重要文化財に指定です。

蔵王堂の大きな提灯…

手前の蟇股彫刻が秀逸。

いわれのある物語が
刻まれているのかと思います。

これら中備えの双斗に乗り
"板蟇股"と呼ばれるもので、
そもそも蟇股は上方の

これら中備えの双斗に乗り
"板蟇股"と呼ばれるもので、
そもそも蟇股は上方の
荷重を受ける構造材として、
厚い板から造られていたが、
平安時代後期に
装飾材の性格が強くなったものです。
形式的に設えらたものかと思います。

金峰山寺の山号は"国軸山"、
吉野大峯が
日本の国土の根本的な軸となる
霊山であるという意味合いが
込められています。

ただ山号とは真逆で、
明治初め金峯山寺は神社として
祀られていました。
1868年の廃仏毀釈とそれに続き、
修験道廃止令が出されて、
1974年には廃寺となり、
本堂蔵王堂は金峯神社口ノ宮と
された時期がありました。

蔵王堂本尊も
廃仏毀釈の例外になく、
数々の危機があったようです。
ただが巨大であったために
動かすことができず、
前に幕を張って、
お姿を見えないようにしたり、
ご神体としての鏡を掛けたり…
篤いい信心にもとづいた
知恵と行動の場でありありました。

蔵王堂の内部の柱は驚くほどに巨大、
最大のもので周囲 約3.9m、
樹齢三百年超えといわれてます。
柱に使われている木には、
杉、桧、松、欅のほか、
ツツジや梨の全部で68本。
皮を剥いだだけの未製材、
柱一本一本の個性を最大限に活かし、
"適材適所”に配置されています。

こちらも適材適所???