百舌鳥古墳群をあるく③ 御廟表塚古墳


御廟表塚古墳
ごびょうおもてづか と読む。
世界文化遺産構成候補には
非該当とされているが…
2014年に既指定7基に
新たに加わった10基のうち一つ。

帆立貝形前方後円墳?なのだが、
前方部は削られてて、
2019年の「国史跡百舌鳥古墳群
整備基本計画
」での評価…
「周濠の大半は埋没、
 墳丘表土が流失」


2016年度の公有化以前から、
墳丘は緑の広場として公開、
百舌鳥古墳群の中で
墳丘に上ることができる
数少ない古墳。

墳丘は樹木が生い茂っている。
晩秋〜冬の落ち葉の時期を過ぎ、
寂寥感が漂う〜〜〜。
と思っていたが、
頂上からパンパンと音が。

銃を構える人の姿(*_*)
こっちの気配を感じたようで、
「ひと上がってきてはるから、
 打ったらあかんStop! Stop!」

小学生らしき男の子たちが、
BB弾でサバイバルゲーム?。
今は
自然に還る
バイオなBB弾もあるとかで、
彼らはそれを使っていました。

「公有化を機に、
 植生の管理をはじめ、
 より適切な遺構保存を
 図ったうえで、
 価値を顕在化させ、
 公開を継続するための
 整備を行う。」※1とあり…

芝生丸坊主になるのかな?
と資料を手繰ると、
林立する姿はそのままとか。

筒井邸の屋敷林」、
堺市指定の保存樹林ですから。

その中心が堺市屈指の巨樹
百舌鳥のクス」。


樹高径2.7m、幹周10.1m、
樹高13mと案内板にあり。
樹齢は800年とも千年とも。


雨乞いの霊験あらたかな
霊木として崇められ、
旧家の門前にどっしりと
枝ぶりを張り出しています。

1950年の台風では
かなりの損傷を受けた
クスノキですが…

昨年は台風直撃でした…
門塀にかかるこの大枝、
よくぞ無事だったと。

筒井家は江戸初期の
新田開発に力を尽くした
堺の豪商なのだそうで、
早くから前庭を地元に
公開されてきたそうです。


筒井家の子孫である
筒井貞雅さんがこんな風に、
市民講座で話されています。
「生命力の強いクスノキは、
 戦国時代の頃、
 家を守るために鬼門の方角や、
 門の前に、また、
 家が戦火にあっても境界が
 すぐ分かるように
 北西や南東の隅といった、
 大事な場所に植えられました。」

戦国武将 筒井順慶※2を
祖先に持つ名家 筒井家。
大和の大名であった順慶、
父 順昭が病死したため
2歳で家督相続したそうです。
1559年(永禄2年)の
松永久秀の乱入により、
河内に逃れてきたとか。

こちら菩提寺 奈良 伝香寺
残る「筒井順慶像

しかし、のちに久秀を討ち、
大和国内を平定、
郡山に築城して、
織田信長政権下に
大名の地位を確立した人。

筒井家の本宅は堺区甲斐町
あたりにあったそうで、
ココは支配所として
使っていたそうです。

つまり古墳も屋敷林の一部、
もとは筒井家の私有地でした。

2008年の地中レーダー探査で、
後円部中央に埋葬施設が
存在する可能性…

2011年には発掘調査、
後円部は2段築成、
テラス上に埴輪列が
並んでいたと、
分かったそうです。

昨年の台風で
法面が流されたのかも…



こんな感じで整備が
予定されているそうです。
改めて楽しみです(・ω・)v

「御廟表塚古墳」

・帆立貝形古墳(前方後円墳?)
・墳丘長約84.8m、後円部径67.6m、
 高さ約8m
・5世紀後半
・堺市北区中百舌鳥町4丁

※1 このブログは堺市HP
国史跡百舌鳥古墳群整備基本計画」を
参考にしました。

※2 筒井順慶とは?
戦国時代の武将。幼名は藤勝。
興福寺衆徒の家に生まれる。
信長に従い、松永久秀を滅ぼす。
のち本能寺の変でのあいまいな態度より
日和見順慶といわれる。
山崎の合戦以後秀吉につき、
邸を大坂船場に設け、順慶町と呼ばれた。
天正11年(1583)歿、36才。


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