"吉野をよくみる"その5 吉野 吉水神社と義経


義経といえば義経千本桜
そして静御前…

後醍醐天皇玉座に至る
手前にある「潜居の間」

源頼朝の追手から逃れ、
義経と静御前が過ごした場所。
静御前とはここで別れ、
義経・弁慶はさらに
女人禁制の大峰山へと


1畳ばかりの小部屋が
弁慶思案の間」とされる。

《赤糸縅鎧》大山祇神社所蔵

源平合戦勝利に奉納されたもの、
壇ノ浦で平家が滅亡の1185年との
伝承で伝えらています。
大鎧は主に馬上で弓をメインに
戦う者が着用したもの、
名のある武士は"大鎧"。
《源平合戦図屏風》に描かれる大鎧、
ただこの屏風が描かれた時代のもので、
海戦では上級武士も着用していた
可能性は低いと思われます。

奉納は大鎧であったが、
実戦には胴丸や腹巻だったのでは?

こちら吉水神社に遺る
義経所用の"色々威腹巻”
おそらく吉野に至っては、
腹巻を着けざるを
えなかったのだったのでしょう。
義経家来の佐藤忠信の兜。

静御前の"緋威腹巻残欠"

そして弁慶の七つ道具

"弁慶の力釘" 説明板にはこうありました。
「時は文治元年鵞毛のごとく
 散乱す雪の師走のこと、
 ところは吉野山の僧坊・𠮷水院。
 兄・頼朝の追手を逃れて転がり込んだ
 義経・静御前・弁慶の一行は、
 ここにその身を潜めて再起を図るべく、
 知恵に知恵を絞っていたその最中、
 すでに頼朝の触手はこの吉野山にも
 伸びていたのであります。

​「ここに義経が隠れているのであろう、
 出てまいれ!」
 𠮷水院の玄関先でわめく追手たち。

​その騒ぎを聞いた武蔵坊弁慶は、
たちまちズッカと
丸腰のまま表へ飛び出した。
異様な凄みある大男の立ち姿に、
その場にいた追手たちは
一様におののいたのであります。
「この由緒ある寺院で
騒ぎ立てるとははなはだけしからん。
身共と力くらべで張り合うことの
できる者がいるならば、
その者からお相手さしあげる!」

そう言うと弁慶は庭に置いてあった
大釘を二本手にし、
やにわに追手たちの真ん中にあった
岩の前まで進み出た。
片手で岩を鷲掴みに掴むと、
もう片手の親指を釘の頭部に当て、
全身全霊の力を込めて

「あえい!あえいやあ!!」と
烈火のごとく顔を真赤にして、
大釘を岩のてっぺんから
親指だけでぐいぐぐいと
終いまで押し込んだ…」

後に豊臣秀吉もこの「弁慶力釘」に
「力をもらいたい…力を!」と、
そう伝えられています。

岩手県平泉にまで逃げ延びたが、
頼りにした奥州藤原氏の襲撃をうけ、
義経は妻子とともに自害と。