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大阪の神社めぐり 守居神社(守口市土居) 

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駅と駅との間隔が短い 京阪電車の土居駅と滝井駅 、 守口市にあるのは土居駅。 ほどなく鎮座するのが" 守居神社 "、 守口と土居の各1字 を用いて "守居"が社名となったのは、 1852年(明治5)8月のこと。 現在の 滝井 にあたる守口町大字 土居字田東の 産土神社 を合祀。 その後1907年(明治40 )10月に、 守口町字猿島で現在の桃町にあった " 大隅神社 "をあわせ守口の総氏神、 守居神社 として今に至ります。 社殿の扁額には 産土神社の素盞嗚尊 、 大隅神社はもと 渦神社で賀茂別雷神 。 社記には祭神を新羅明神・三井神とあり、 一番古い記録では 後宇多天皇 建治年間、 1275-78年に祈祷修法が行われ 「神威の高貴なること他に異にして  親しく横難中夭の危を救い給う  請願満足すること幾千万と云う  数を知らす」とあり、 往時より神威があらたかであったと。 近くに 高瀬川(淀川) が流れていたそうで、 『播磨国風土記』賀古の郡に、 大帯日子命こと 景行天皇 が 摂津の国の 高瀬の済 から、 川を渡ろうと思い渡し守を依頼、 紀伊国生まれの渡し守の小玉は 「 あなたの贄人ではない 」と主張、 渡し賃を取ったとの話… "済"とは渡し、"贄人 にえびと"とは、 召使いをあらわす言葉であるが、 この地域をはじめ 淀川の水運を 司っていたのが紀氏の一族 で あったことを示す説話が残る。 土居駅北側商店街 に鎮座していて、 地元の人の崇敬もあるようで… 鳥居をくぐると右側に 石が祀られています。 社記によると918年(延喜18)の 淀川洪水 のとき 西南石礫の渕 で、 我を祀れと振鈴の声でお告げあり、 「 土を居いて 」お祀りしたのが始まり、 「 土を盛り上げた土手 」 " 土居 "は 淀川の土手 に由来しており 、 昔は 土居神社 と称号されていました。 " 守居神社刀 "には"備中守橘康廣"の銘あり、 刀匠の一派近江石堂派から 江戸時代の寛文年間(1661〜73年)ごろ 大阪に出て 大阪石堂派の祖 となった 康廣の代表作の1つ に数えるもの、 府指定有形文化財に指定されています。 巨木の切り株に祀られ...

大阪の神社めぐり 蒲田神社(淀川区東三国)

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大阪メトロ の 土日祝一日券 でブラブラ 御堂筋線 東三国駅 にほど近い杜、 蒲田神社 をおとずれたのは、 2024年5月のこと。 正面鳥居横大人二人でも 手がつなげないほどの 大楠 。 樹齢650年以上といわれる 古い切り株が安置された、 白光 (しらみつ)さん。 稲と水の神様で 巳さん を おまつりしている小さな祠。 齊館(清明館) 幣殿なのかも知れません… 字" 室 "にあったので" 室の明神 "と 呼ばれ、 いつのころからか稲荷神社となった、 蒲田神社 と称されたのは、 1909年(明治42)からのことです。 伝説によれば… 播州の"室の明神"が 上賀茂神社 の 分霊を祭ったものであり、 その分霊を勧請しようとして、 当地で台風に遭遇したのを 避難安置したのを祭った のが最初とか。 口伝によれば室町時代に 地元の有力者であった 佛生院又三郎 が村の鎮守として 創建した神社であるとされます。 御祭神は伊勢の外宮 豊受大神 と 異名同神の宇賀御魂神、 若雷神の名もある 別雷神 (わけいかづちのかみ)。 十二支方位 瓦で十二支の方位が表されていて、 こち虎。 事代主大神を祀る 恵美須社 蒲田千年樟 蒲田神社  淀川区東三国二丁目18  大阪メトロ御堂筋線東三国駅より  東へ約200m  2024年5月5日 参拝

大阪のはしばしvol.11 瑞光寺のくじら橋

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大阪のはしばし シリーズ2017年以来で 紹介する橋は 阪急電車 上新庄駅 近くの、 瑞光寺の雪鯨橋 (せつげいきょう)。 宝暦4年(1754)に瑞光寺の 潭住 (たんじゅう)禅師が、 南紀太地浦 に行脚したときのことが キッカケとなったクジラ橋。 瑞光寺の寺伝によると聖徳太子創建… 火災で衰微したが、寛永20年(1643)に 僧天然が指月寺として復興し、 白隠禅師 を座主とした。 享保14年に(1729)いまの寺名となった。 大阪メトロ今里線 めぐりをしていて、 瑞光四丁目駅 からたどり着いた寺院。 クジラ橋があるのを瑞光寺 ということを、 すっかり忘れていて石柱を目にして、 思い出しての訪問です。 肋骨 部分なのかもしれません、 クジラの骨の門が現れます。 クジラ橋を渡る手前の広場に 魚のヒレのような骨がいくつか… 第五代目鯨橋の欄干部分で、 肩骨の肩甲骨 にあたる部分です。 現在の第六代目の鯨橋は2004年に 北大西洋の北海道沖の調査捕鯨で 捕獲された イワシクジラ の 下顎骨と肩骨を2005年南極海で 捕獲された クロミンククジラ の 脊髄が使われています。 最初に鯨橋が紹介されたのは、 天明3年(1783)の『 浪花のながめ 』 「瑞光寺の地内に勇魚(くじら)の骨にて  作れる橋。渡り一丈四、五尺あり。  当時より廿(にじゅう)ヶ年来前、  紀州熊野浦より奉納せし異物なり。  鯨のあごにて橋の欄干、橋板を作る。  踏み渡るところは、朽てなしよって、  石にて作る。  欄干の中の橋は鰭の骨にて作る。  是を 雪鯨橋 という。  世の類いなき珍しきながめなり」 クジラ漁を生業とした海岸部では 供養の塚や塔などがあるが、 漁と直接関係ない都市にあるのは 珍しく、消費地と産地を結ぶ 象徴的な存在との評価されています。 古来より鯨を余すところなく 利用した日本人のこと『 翁草 』 という安永五年(1776)の書物には、 捕獲した鯨は私心なく、 村民に分け与えられそうで、 村全体を潤してくれた鯨は、 村人と同じように墓をつくり 丁寧に弔われたとあります。 宝暦4年(1754)のこと 不漁に泣く南紀太地浦、 村長 覚右衛門らの豊漁祈願の 依頼をうけた禅師。 仏の道には殺生は禁じらており 何度も断った そうですが、 懇望により祈願したところ… 村人は大漁にわきあがったの...

浦賀の湊てくてくvol.3 西叶神社

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西浦賀の鎮守に 西叶神社 は、 東と区別のためそう呼んでいますが、 本来は 叶神社 が正式名称です。 「 平家物語 」に登場の 文覚上人 が、 源氏再興を願い 房総半島の 鹿野(かのう)山 に修行し、 もし自分の大きな願いが叶えられるなら、 よい土地を選び神社を建てると誓いました。 養和元年(1181)に 頼朝ゆかり の 千葉 鹿野山の対岸である 西浦賀の地が選ばれ、 石清水八幡 を勧請しました。 文覚上人は 鳥羽天皇 皇女 に仕える 北面の武士でしたが、 出家ののち諸国霊山を修行う、 後白河法皇 への荘園寄進強要され、 平氏嫌いであったことが、 源氏挙兵へのキッカケ とも伝わります。 現在の社殿は天保13年(1842)再建、 社殿の彫刻はいまの 千葉県 安房国 の 後藤利兵衛 の若い頃の作で、 その後鎌倉幕府の彫刻師として 雇われた人だそうです。 拝殿向拝の格天井には、 二十八態の龍 、 一つとして同じ構図ではありません。 その龍の間に日本に未渡来であった 花鳥たちが華やかさを添えていました。 拝殿中備のと左右側面の 海老虹梁 上の 合わせて 五態の龍 は迫力があり、 側面前左右の肘木には 「 枇杷 (びわ)に 木兎 (みみずく)」 拝殿向拝正面の肘木左右に「 笹と雀 」 左右側面にも装飾蛙股 社殿右手に立つ" 昭洞香山君碑 "、 嘉永6年(1853)の ペリー来航 のとき、 中心となって交渉にあたった 浦賀奉行所 与力 の 香山栄左衛門 は、 幕府責任者との交渉を望みに対し、 自らを「 浦賀奉行である 」と 偽り交渉にあたったそうです。 アメリカ側から信頼された香山は、 無事に親書受理が終わると、 黒船の中で歓待を受けたとか… 親交を深めすぎたことで、 周りの反感を買ってしまったとか。 浦賀には「 ペリー 」を 冠した看板が多く叶神社の境内地にも ペリー歯科 なるものあり… ただ…" ペリー上陸記念碑 "が立つのは、 浦賀ではなく横須賀市久里浜 なのです。 浦賀の湊は周囲は山に囲まれていて、 船を監視するのにも都合の良い地。 江戸の防衛拠点ではありましたが、 ペリー記念館 へは浦賀駅ではなく、 京急久里浜駅 からバス… はじめはペリーの足跡を訪ねるつもりが、 2つの叶神社参り となりました。