投稿

7月, 2024の投稿を表示しています

TAROさんの梵鐘をたずねて~天長山 久国寺(名古屋市北区)

イメージ
ずっと前から観に行きたかった TAROさんの梵鐘 … 名古屋市北区にある曹洞宗のお寺、 久国寺 (きゅうこくじ)へ。 天長山 久国寺といい、 徳川家康 にゆかりのあるお寺から、 守護仏 聖観世音菩薩 を貰い受けて 1662年に創建されました。 禅宗の一つ 曹洞宗の寺 らしく " 山門禁葷酒 "の石碑が立ちます。 名古屋城の鬼門除けの地 、 東海地方にはあまり子年にちなんだ お寺や神社がない のです。 NHKの大河ドラマ 「どうする家康」 で、 卯年生まれ だとする近年浮上してきた 説にリンクして描かれていたのを、 ちょっと思い出し、その影響かと… 思ってしまいました。 境内に立つ 太平洋戦争の戦没慰霊 の、 護国観音像 は聖観音菩薩でもあり、 子年の守り本尊 です。 コンクリート彫像作家 浅野祥雲さ ん作、 犬山市の 桃太郎神社 の桃太郎の像、 岐阜県 関ヶ原ウォーランド の像などを 手がけていることでも知られています。 家康は寅年か卯年か? 徳川家康こと松平竹千代が 岡崎城で産まれたのは、 1542年(天文11)12月26日が定説です。 寅年 寅の日 寅の刻、 守本尊は毘沙門天 だとする。 翌1543年=卯年… 「誕生した年について家康自身が  否定した史料が残っている。  家康が慶長8年(1603)、  征夷大将軍に任官するにあたり、  陰陽道の儀式で神に無病息災・  延命長寿を祈禱する天曹地符祭を  土御門家に命じて行った際、  捧げる願文である都状に   「六十一歳」と書かれており、  自筆で「家康」と  署名していること である。  天文11年誕生が正しければ、   この年に家康は数え62歳で ある。  天に捧げる願文に間違いは書けず、  仮に家康自身の意思によって誕生年を  天文11年と詐称していたとしても、  さすがに天に嘘をつくことは  出来なかったであろう。  天には自分の生年を  天文12年と認めているのである。  今となっては正確な誕生日は  判らないものの、   少なくとも家康の生年は、  家康自身が認めた  天文12年と考えるのが妥当である。  生まれついての帝王であることを  強く印象づけるためには、  卯年生まれではなく、  寅年最後の寅日生まれに  置き換える操作が  必要だった と思われる。」 かなり脱線が長くな

大阪の神社めぐり 豊崎神社 (北区豊崎)

イメージ
幻の皇都 難波長柄豊碕宮 、 孝徳天皇の皇居だったとされ、 日本初の本格的な首都の宮殿建築… 3つの説の一つだった地、 主祭神が孝徳天皇 だという " 豊崎神社 "を訪ねました。 大阪市北区の梅田と淀川の間の 豊崎に鎮座する神社は、 宮中にある歴代の天皇を祀る 皇霊殿を除くと、 孝徳天皇を祀る唯一の神社 です。 近年では 乙巳の変 (いっしのへん)を呼ぶ 645年に起きた蘇我氏を滅ぼした政変。 蘇我入鹿を皇居内で暗殺、 蘇我入鹿の父 蝦夷を自害させます。 クーデーターだった政変は、 日本で最初の年号を"大化"と定め 、 翌646年に改新の詔を発布し、 中大兄皇子と中臣鎌足が 政治改革を行なったことで " 大化の改新 "とされたのです。 大化改新を実施するために 多大の労力により築かれたのが 長柄豊崎宮だったのですが、 新しい国家体制になじめない 群臣たちの間で不満が高まり、 不穏な状況に陥り、 中大兄皇子は飛鳥へ戻る 決断をするのですが… 皆が大和国へ戻ると、 一人摂津国に残された 孝徳天皇は悲嘆にくれたまま 崩御した とされます。 孝徳天皇の御履脱石 と伝わる神石、 長柄豊崎宮はたった36年で廃され、 その後 宮跡は松林となり、 八本松と呼ばれていたとか… 孝徳天皇の皇居で、 日本初の本格的な首都の宮殿… 宮跡が見つからずにさまなまな説、 法円坂一帯にあるという"上町説 "、 豊崎神社附近から長柄へ かけてあったという"下町説"、 「垂水の庄から水を引いた」 という記録から、 新淀川の右岸一体にあったという”宮原説” 。 1953年になって大阪市中央区 法円坂 で 大な鴟尾が発見され、 大阪市立大学の 山根徳太郎 教授によって 大極殿跡が1961年に発見 されて、 これが難波長柄豊碕宮であるとされ、 今では "上町説"が定説と なっています。 神崎川左岸の西宮市加島の 香具波志神社 には孝徳天皇が 御製を遺しています。 「 かこはしや 此花いもみせぬ  かもやこの花 」 孝徳天皇が 有馬温泉 に行く途中、 香しい花がこの辺りに咲いていて、 思わず歌を口ずさんだものだが、 難波長柄豊崎宮が完成する 7年間摂津国での活動したとか。 1772年(明和9

大阪の神社めぐり 富島神社 (北区中津)

イメージ
大阪メトロ 中津駅 と 阪急 中津駅 、 同じ名前の駅名だけど離れてて、 乗換駅にはなっていません。 中津から十三地域の氏社 である 富島神社 にお参りしたときのこと。 昭和レトロな商店街 中津商店街 、 長屋や路地が残っていて、 高層のビルやマンションのお膝元は、 懐かしい雰囲気が醸し出しています。 富島神社の御祭神は 速素盞嗚尊 (スサノオノミコト)とされ、 厄除けや縁結び・学業などの 御利益があるとされています。 由緒書に御神徳は悪疫祓除とされ、 創建は足利時代。 社伝では室町時代には存在し、 牛頭天王社 と称していたとか。 文禄3年の太閤検地の記録によると、 「牛頭天王社除地一反二十歩」と記載、 それ以前には存在していたのです。 明治の廃仏毀釈により 菩薩・権現・牛頭天王などの 仏教用語が禁止されたことで、 浪速八十島の中の"利島" に ちなみ 利島神社 へ改称。 明治時代には島神社、兵衛府神社、 春日神社、天満宮などを合祀。 中世は 富島荘 だったことから 今の 富島神社 に改称されたのです。 境内にある" 十三思昔会 記念燈 "。 淀川改良工事により川に沈んでしまった 旧十三町民の方々が建てた石碑。 明治天皇御百首のひとつ 「我心およばぬ国のはてまでも  よるひる神は守りますらむ」 と刻む。 我が国家を思ひ国民を思ふわが心の、 至らぬ処はないかと 日夜心をかけて居るが、 仮令至らぬ国があるにしても、 そのわが心の及ばぬ国の果までも、 国家を守護する神は 必ず守って下さるであらう。 との意。 1983年9月発行に雑誌 「 大阪春秋 」 「特集 おおさかの碑」にこうあります、 「…十三思昔会   表に明治天皇御製あり裏に 「 明治18年の大洪水で淀川大改修となり  31年に町民の立退きを命ぜられ  各地に転居した。  それから二十余年たって  今昔の情禁じ難く  旧十三町民親睦を図るため  思昔会を結成して  ここに記念碑を建てる 」」と。 十三と中津… 十三という地名は元々旧中津川の南岸 、 成小路村の 一集落の地名でした。 鷺島神社と いうお社があった辺りが 元の十三地域だとされています。 1888〜1909年(明治31-42)にかけて 淀川改良工事が行われ、 十三の集落も河川敷の下に 消えてしまったのです。 新淀