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湖東三山のもみぢば〜松峯山 金剛輪寺 水雲閣と赤報隊のこと

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明壽院庭園 にある" 水雲閣 "、 ここは幕末の歴史の1ページを 刻む舞台となった場所なんです。 明治新政府の東山道鎮撫総督指揮下の 一部隊であり 岩倉具視 の了承を得、 西郷隆盛は" 赤報隊 "を結成。 1868年(慶応4年)1月8日、 隊長は 相楽総三 で、 三番隊には近江出身の者が多く、 水口藩士が中心だったとのこと。 「赤心を持って国恩に報いる」 隊、 "赤心"とは嘘いつわりのない、 ありのままの心 のことの意味。 本尊の 聖観世音菩薩 は 「 生身の観音 」とも呼ばれていて、 行基 が彫刀を進めると 木肌から赤い血が一筋流れ 、 粗彫りのまま本尊として 安置したというから、 "赤報"に相応しい場所 だったとも、 考えられたのかもしれません。 明壽院は金剛輪寺の本坊で、 1673年(寛文13)には記録がみられ、 金剛輪寺では下方三分の一を 寺域を占めています。 江戸時代の創建の明壽院は、 学頭所として使われていました。 南・東・北の三方を囲むように 作庭年代の異なる3つの庭園があり、 国の名勝に指定されています。 桃山時代、江戸初期、江戸中期の 三つの時代での作庭がみられます。 夏の季節には池一面の睡蓮(が 清楚な花を咲かせるの庭に、 池中に 七福神の宝船 を表わす 岩でできた舟が配されています。 山畔に 宝篋印塔 を配しています。  そして池泉観賞式の庭園は、 書院から観賞できるように なってようになっています。 作庭時期についての資料はなく、 幕末に部分的な記事があるとか。 京都曼殊院 に属していて、 改庭が度重ねて行われ、 現在に至ったのでしょうか。 いくつもの時代を 複合しながらも、 全体としての鑑賞上も優れおり、 名勝庭園として 指定された理由でもあります。。 アカメヤナギの古木が景趣を添え、 山の斜面に植え込まれた アカマツとサツキの群れ、 巨木群が狭い山容の奥深さ、 紅葉の色を際立たせていました。 赤報隊その後を追います… 東海道先鋒総督府の指揮下に入り 桑名への進軍を命じられたが、 隊長は 相楽総三 は独断で東山道へ、 各地で「 年貢半減 」を布告。 これが新政府の不興を買った、 略奪行為を行う"偽官軍 "と 見なされたと伝わります。 新政府の...

湖東三山のもみぢば〜松峯山 金剛輪寺 三重塔

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本堂北側に立つ 三重塔 総高22.2m、 待龍塔(たいりゅうとう) とも呼ばれています。 落慶供養目録によると 1246年(寛元4)4月9日建立とあるが、 様式手法によると 南北朝期 かも。 寺記によれば1830年ごろ、 相当に破損が進んだのですが、 根本修理が叶わず。 二層の一部までしか 残っていなかようで、 1972年(昭和47)に半壊のまま 重要文化財の指定を受け、 その後解体修理がほどこされた。 1983年に建立時計画で未完成の、 初重の縁、二、三重の柱間装置なども 整備され現在の美しい姿となった。 二重以上に内法長押を用いず、 上方への低減を図っています。 初層内部には 大日如来 がおられました。 「山見えぬ日も 山へ咲く 桐の花」 霧や雲で山自体は見えなくても、 山が存在することを確かに感じさせる、 初夏の静かで力強い山里の風景、 豊田都峰 の句碑、 青紅葉のころも美しいのかと。

『新島襄の愛した石たち』の出版に寄せて

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2025年11月に 同志社大学地学研究会 さんが、 『新島襄の愛した石たち』 を 発行されました。 冒頭に "新島襄の戸棚" の写真が 掲載されています。 2011年の ホームカミングデー で 新島旧邸 を見学したときの一枚です。 ブログ にはこう綴っていました… 「 隅には化石や鉱石などの  棚があります。  実は新島襄は  アーモスト大学の理学コースで、  地質学を学んでいたようです。 」 『新島襄の愛した石たち』 に 掲載されたページがこちらです。 『新島襄の愛した石たち』 より 以下引用させていただきます。 「その後、 新島八重 夫人は、 1907(明治40)年に京都御所の すぐ東隣にある 新島襄旧邸 を 同志社に寄付し、 1932(昭和7)年6月14日に 逝去するまで、そこに住んでいた。 この新島襄旧邸に、 岩石や鉄物や貝などの 標本が存在することは、 余り知られていない。 新島襄がアメリカに渡り すっかり虜になったと考えられる 石集めや、ちょっとしたものを 持ち帰る癖によって集められた標本が、 戸棚に収納されていた。 書斎の机には石が文鎮代わりに 四つ置かれていた。 」 新島襄旧邸 にあった 「自筆文書」などの資料は、 1942(昭和17)年に、 今出川学舎旧図書館啓明館の そばにできた 遺品庫 (ヴォーリズ建築事務所設計)に 収納されている。 しかし、 新島襄旧邸の 「新島襄標本」 は 遺品庫に入れられていない。 新島襄の死後もずっと 新島襄旧邸の戸棚に収 納されたままであった。 このように扱われていたということは、 これらの標本類は、 あまり価値がないものと 見なされていたのであろう。 新島襄旧邸は、社宅として 使われていた時期もあったが、 1970年頃には「新島襄旧邸」として 整備されていたようである。 「新島襄標本」 の管理も旧邸の管理に 準じていたと考えられる。」 1993年発行の 『新島襄ーその時代と生涯』 には、 このように綴られています。 「春夏の休暇中は、かなり長期にわたる  徒歩旅行に出かけている。  鉱物採集や各地の見学が目的であった。」 ブログの "新島襄の戸棚" の写真を 見つけていただいたのは、 同志大学地学研究会OB の方より、 今年の3月にメールが届きました。 「新島旧邸の戸棚にあ...

湖東三山のもみぢば〜松峯山 金剛輪寺 本堂大悲閣へ

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金剛輪寺 は山号を 松峯山 、 開山は 聖武天皇の勅願 で 行基 菩薩により741年(天平13)。 比叡山より 慈覚大師 が来山し、 天台密教の道場に、 天台宗の大寺院となりました。 本堂内陣の左手に祀られる 開祖 行基菩薩 と 中興の祖 慈覚大師円仁 。 12世紀末から13世紀の造像で、 数少ない大師の古像として 貴重な存在となっています。 そして 比叡山中興の祖 、 慈恵大師 良源像 。 観音様の化身 とも言われ、 観音三十三身の数、 あるいはその倍数の像を造立、 ご利益を求めることがあったとか。 惣門 には" 聖観音 "の大きな提灯、 " 黒門 "とも呼ばれ、 1794年(寛政6)に建立されたもの。 近江西国 第十五番の御詠歌 「 分け入りて 仏の恵み  松の峰 嵐も法も 声かとぞ聞 く」 山門から本堂までの長い石段、 山岳城郭であったころの趣を 今なお残していました。 まさに "分け入りて"の本堂へ … 石段を登りつめたところに、 僧の機智により織田信長の 焼き打ちによる焼失の 難を免れた本堂大悲閣、 三重塔、二天門があります。 長い山道を登ると最後に 虎次郎ゴロシの石段、 二天門 を見上げたころは、 バテバテで写真なし。 当初は 八脚門の楼門 でしたが、 のちに上層が失われたそうです。 自然石が礎石に用いられ、 和様であって室町時代のもの。 右に 増長天 をまつる。 左に 持国天 、いずれも 金剛柵 が 設けられています。 本堂 大悲閣 入母屋造りの檜皮葺で 七間四面の豪壮な建物です。 " 大悲閣 "とは慈悲の仏である 観音さまのいらっしゃる所 、 全国各地に大悲閣がありますね。 本堂外陣の正面の扁額は、 聖武天皇の宸筆 とされる。 宸筆(しんぴつ)とは、 天皇(天子)ご自身が書かれたの意。 1952年に国宝指定、 東京オリンピック で、 日本建築の代表として精巧な 10分の1の模型が制作され、 東京国立博物館の記念展 で展示、 海外からの人たちにも 多く知られるようになったそうです。 文永弘安の両役 に鎌倉の 北条時宗 が 近江守護佐々木頼綱に命じ、 近江国中の祈祷寺社に 元軍降伏の祈願を修せしめ 元軍が敗北した。 そこで、 守護 佐々木頼綱 は 本堂を再興したと伝わります。...