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岡山県北の雄都 津山たび〜 津山城

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津山城 に限らず明治維新を機に、 1871年(明治4)に廃藩置県で、 1873年には廃城令 が出されて、 天守、屋敷、櫓、門など すべて取り壊され石垣のみに…。 新しい紙幣ができたのが 同じ1873年のことで、 旧藩札の通用が停止されます。 廃藩置県後は 北条県 となり、 11月6日から3日間かけて、 424万枚の藩札が焼かれたそうです。 津山城の取り壊しも準備がはじまり、 当時の 北条県 からの届けによると、 「城郭存廃未だ御達し之れなく候へ共、   昨夏陸軍省官員巡回 のみぎり、  やぐら門、石壇すべて払い下げに相成候  条入札差し出すべく旨、  指示につき去秋取りまとめ、  同省へ送達に及び候間、  御省へ御引送り相成候儀と存じ奉り候、   就いては廃城御決定  必然の儀と存じ奉り候 。  郭内地所払い下げ等  御規則照準取計申し候。」 全面取り壊しに只ひたすら、 存置しようという考えは 毛頭なかった ようです。 1874年(明治7)6月から、 約十ヵ月をかけて津山城は 完全に姿を消したのです。 森忠政 が1604年(慶長9)に築城にかかり、 1616年(元和2)まで13年の歳月を要しました。 秀吉の死後は徳川家康に接近、 信州川中島の海津城主でしたが、 小早川秀秋 の無嗣改易後、 森忠政が津山に入り、津山城を築き、 美作国主となった。 4代藩主 森長成 が27歳で病死、 その後 関家の養子になっていた 衆利が森姓に復し継いだが、 幕政を批判して発狂 したことを 契機に津山藩は取り潰されました。 " 備中櫓 "は築城400年記念行事として、 2005年3月に復元されたものです。 『森家先代実録』によると、 「 備中矢倉、  池田備中守長幸入来之節出来 」。 森忠政は、長女於松を鳥取城主の 池田 備中守 長幸 に嫁がせており、 長幸は娘婿にあたる人物でした。 備中櫓の発掘調査時に 池田家の紋の" 揚葉蝶 "が 刻まれている瓦が出土、 森家の紋は"鶴丸"であり、 池田家との繋がりを示している、 とされています。 1809年(文化6)に火災に遭い、 本丸殿、表鉄門、裏鉄門などが 焼失したそうです。 表鉄門と両脇の石垣の再建は、 8年後の1817年(文化14)年のこと。 東側にある石垣には、熱を受けて 赤く変...

岡山県北の雄都 津山たび〜 PORT ART&DESIGN TSUYAMA

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芸術文化の創造・発信拠点として 2018年にスタートした PORT ART&DESIGN TSUYAMA 。 津山 の "津" にちなんだ 港= PORT 、 人や文化が集まり賑わい、 発展していく"港"を目指している そんな願いが込められています。 本館は 木造二層入母屋造 、 千鳥破風 の玄関付きで、 寺院建築かと思わせる外観。 屋根は檜皮葺の上に銅板を張り、 さらに 玄昌石の天然スレート で 葺くという実に凝った造りです。 玄昌石 は粘板岩の一種、 表面の波のように流れる筋模様と 比較的薄く剥ぐことができ、 宮城県の玄昌石などは、 東京駅の屋根材 としても使用されました。 本館は木造平屋建てで、 銀行建築としては極めて特異な、 仏殿を思わせる二重屋根 を持ちます。 内部が 折上格天井 、 屋久杉 と 尾州檜 を使った上部壁面、 かなりの贅沢な造りです。 柱には 栂の木 が使われ、 カーブがすばらしい 折上格天井には 吉野杉 。 妹尾銀行 林田支店 として建設、 1920年(大正9年)に当時の頭取 妹尾順平 が手がけたものです。 その後、第一合同銀行、 次いで 中国銀行 津山東支店 となり、 1973年に東津山駅前に 移転するまでの約半世紀、 銀行として使用されていました。 妹尾銀行 については、 調べることができなかったのですが、 妹尾順平 の略歴を要約すると… 実業家にして、後年は政治家。 真庭郡落合町(現在の真庭市)の生まれ。 専修大学卒後は故郷の津山へ戻り、 兄の経営する普通銀行を譲り受けて " 妹尾銀行 "と改称して開業し、 自ら専務取締役に就任。 その実には、 大原孫三郎 らの協力で、 普通銀行を5万8千円で 買収することができたのだと伝わる。 (小谷善守「出雲街道」第5巻「津山」) 1920年(大正9年)の 衆議院議員選 で、 岡山8区から立憲政友会公認で 立候補して当選。 ところが 2年後に選挙無効で失職 。 1922年(大正11)に、 大原孫三郎の 第一合同銀行 に 合併吸収されたという。 大原孫三郎 は 倉敷紡績所 の 2代目社長であった人、 第一合同銀行は1919年に設立。 中国銀行 の淵源は1878年設立の 第八十六国立銀行 ですが、 昭和初期の世界恐慌の影響もあり、 銀行合併廃...